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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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   今月のことば
  望みをいだいて喜び・・・・277a8590.jpg
       (ローマ12:12)
 
聖書が「喜び」を語る場合と、私たちが「喜び」と呼ぶ「歓喜」とでは、根本的に違うことに気付きます。私たちの喜びは、私たち自身の状況・状態に関係しています。自分が悲惨な状態になると、私たちの喜びは消え去ってしまいます。私たちは、自分が「ご機嫌」な時だけ喜ぶのが常と言えます。
 しかし、キリスト者の喜びは、それとは異なっています。それは、私たち人間の今は「喜び」の状態にないということにあります。同時に、キリスト者の「喜び」は、今の状態のものではなく、実は、「前・先き喜び」、すなわち、未来に向っての「希望」の喜び、約束が、大きな光のような喜びとして、聖書が語る「喜び」です。
 ですから、キリスト者の「喜び」は、現在起こっていることだけの関係ではないのです。詩篇34篇2節には「わが魂は主によって誇る。苦しむ者はこれを聞いて喜ぶであろう」という驚くべき言葉が記されています。すなわち、苦しむ者は、必ず来る助けを期待して喜ぶ、と言うのです。
 キリスト者の人生は、「喜びの人生」であると言う時、キリスト者には苦しみがないという意味で理解するなら、それは思い違いです。そうではなく、将来に、約束に信頼し、その約束に基づいて喜ぶことが信仰生活です。
 マルティン・ルターは、かつて福音という言葉を、「喜びの叫び」と言っていましたが、その通りです。悲しみに沈んでいる中にあっても、神の約束は不変です。私たちの心がどうであれ、神の約束は不変です。この「喜びの叫び」こそ、キリスト者に求められている大切な使命・役割の証しであることを覚えたいと思います。
 
  わがよろこび わがのぞみ、
   わがいのちの主よ、
  ひるたたえ、よるうたいて
   なお足らぬをおもう。
 
  ならびもなき愛の主の
   みこえぞうれしき
  わがのぞみ、わがいのちは
   とわにしゅにあれや。      讃美歌527番
 
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   今月のことば
  
 「わたしから離れては、あなたがたは何一つできない」。
                    (ヨハネ15:5)
 
 私たちには、様々なことが出来るという思いがある。子供から大人になる時、心に夢を持ち、可能性を信じる。結婚することもでき、家庭を築くこともできる。夢に描いた仕事に最善を尽くそうと思う。病の人を助ける仕事をしたり、多くの人々のために励むこともできる。
 しかし、聖書は、「わたしから離れては、・・・何一つできない」という。イエス・キリストから離れた行いは、何事も虚しいという。人間的栄光としては何事でもできるが、神の栄光をあらわし、讃美することは何事も出来ない。
 私たちが、神なしに生きることと、神にあって生きることを思い描いてみよう。神無しにすることと、したことと、神のもとにあってすること、したことに違いはないのだろうか。
 このみ言葉は、あらゆる人間的栄光に対する神の判定・結論である。
 
 私たちが、今日から全てのことを、神にあって、神と共に、神のために生きることを想像した時、それは、虚しいものになるだろうか。そのことを通して、神の助けを頂いて、古い道から離れ、新しい道への出発点となるなら、それを選び求めようではないか。そこに、永遠の祝福と喜びがあるのだから・・・・。
 
 
私と共に歩まれる主よs-CCF20110523_00001.jpg
 
私と共に歩まれる主よ
あなたの愛と真実を
私のものとして
今日も明日も歩ませて下さい
 
私と共に歩まれる主よ
あなたの怒りと憂いを
私のものとして
今日も明日も歩ませて下さい
 
私と共に歩まれる主よ
あなたの叫びと祈りを
私のものとして
今日も明日も歩ませて下さい  水野源三著・第3詩集「今あるは神の恵み」
   今月のことば
  
s-CCF20110422_00008.jpg 受けるよりは与えるほうが、さいわいである。
            (使徒行伝20:35)
 
東北・関東を襲った地震と津波、そして原発事故の被害は想像を超えています。それに立ち向かうには一人一人の力は小さく、無力さを思い知らされもしましたが、その小さな力が人の心にある何かを呼び起こしたことも事実です。「支え合う心」「絆」「地域の力」「家族愛」など、日本人が大切にしていた無形の価値観が再確認させられたのも事実です。
 
人は与える方がやさしいと考えるところがあります。しかし、これほど難しいことはないということもまた事実です。自分の気持ちで与えることは簡単ですが、与えるとは、有り余る余分な物を与えることであるなら、それは、余り物の処分になるのではないでしょうか。買占めの反対の気持ちではないかと思えるのです。
 
私たちは、何としばしば、必要のないところに与え、必要なところでは与えないことでしょう。また、私たちは、それを受ける人の笑顔を想像して行う行為は、受ける人を卑しめていることになりはしないでしょうか。私たちの心の中に、受ける人々より一段高いとこに身を置いて、自分をパトロンのように感じることからくるとしたら、何と傲慢な「罪を犯している」ことでしょう。
 
私たちの心の中に、イエスの代役、救い主の役を演じたくなる誘惑が芽生えます。また、「受けること」ことを嫌う心もあります。私たち人間が何時も与えることだけを考えて、受けようとする謙虚さを育てていないとするならキリスト者は、何と大きな罪を犯していることでしょう。もしそうなら、今持っているものは、祝福のないものになってしまうでしょう。
 
改めて、考えてみましょう。私たちが神から最大の賜物・贈物を与えられことを。そのことを学び返す時、私たちにとって、与えるということは、受けるよりもさいわいになるでしょう。そして、私たちは受けた者として、神の前に謙遜になる時、私たちを傲慢にせず、受ける人を辱しめず、お届けする者に用いられるでしょう。
   今月のことば
  恐れるな、小さな群よ。御国を下さることは、あなた方の父のみこころなのである。
               (ルカ12:32)
 
地震・津波・原発事故など、驚愕の出来事に、平常な心を失いかねません。この出来事では、誰もが被災者であり、悲しみと苦難を共にしなければなりません。笑顔と人として共に助け合うことが第一です。頑張りましょう。
神の憐れみと一日も早い復興と平安をお祈りいたます。
 
しかし、今、世界の中で、ひと握りの人々や力によって国全体を支配することで、争いや悲惨、弾圧や不正が混乱をもたらしています。これは、近年のことではなく長い人類史の中でも見られることです。
 
 この冒頭のみ言葉は、小さい群が世界を支配するということだけではありません。そうではなく、その群が小さい群だと言うだけでなく、その群のあり方が重要であります。その群のあり方が、歴史に登場した横暴な群ではなく、少しも支配者らしく見えない群です。人間的な力のない小さな群が、支配者になるなどと言うことはあり得ないことです。
 
 この小さな群のあり方は、彼らがその後に従いその所有者となっている羊と羊飼いに置き換えてみる時、何かが見えてくるのではないでしょうか。この羊飼いには、人の目には力も栄誉も持たず、軍隊も富みも持っていません。この羊飼いには「まくらする所がない」(マタイ8:20)。そして、あざけられ追いやられ、最後に「羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11~15)というのです。
 そのような羊飼いを信じて、その声に従う羊の群は、何を信じたのでしょうか。それは、数や見かけではなく、その羊飼いを信頼する何かがあったのです。それは、「羊のために命を捨てる」姿の中にありました。
 この羊飼いが導くところは、神の国であり、永遠の救いと罪の赦しと言う想像すらできない世界・約束・恵みでした。取るに足らない羊に、羊飼いはご自分の命を捨ててまで守り導く姿は、愛そのものではないでしょうか。
 この約束を勝ち取るために小さな群は、敵に勝つ力、圧倒的な武器を手にすることで得るのではありません。
 ただひとつ、この羊飼いに信頼する「信仰」と言う武器だけを心に持つことです。「柔和な人たちは、さいわいである。彼らは地を受けつぐであろう」(マタイ5:5)を思い出させます。
 
 主の恵みfff69cba.jpg
真の神を信じない  仰ごうとしない私を
真の神を仰ぐ者とされた  主の恵みをほめ讃える
真の愛を求めない  触れようともしない私を
真の愛に触れる者とされた  主の恵みをほめ讃える
真の道を尋ねない  歩もうとしない私を
真の道に歩む者とされた  主の恵みをほめ讃える  水野源三「み国をめざして」より
 
 
   今月のことば15fb443c.jpg
 
 ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた」。
              (マタイ26:75)
 
 この冒頭の聖句は、私たち一人一人にいろいろのことを思い起こさせます。聖書の中にはそのような自分を鋭く見つめさせるみ言葉がありますが、それに出会うことはとても大切なことと言えます。
 ユダの時、カヤパの時、反キリストの時の中で、ペテロにとって、また信仰者にとって、いろいろのことが明らかになります。たとえば、剣や男らしい方法や英雄的な力は、神の国では相応しいものではないということ。そのために、キリストは、ペテロの挫折を惹き起こしています。ペテロが大祭司の邸の外で「激しく泣いた」ときには、まだ一人の男らしい男が泣いたのであり、ペテロが挫折したときには、まだ男らしい男が挫折したのです。
 しかし、そのようなペテロは死ななければならいのです。それは、彼自身が生きるのではなく、彼の中でキリストが生きるためなのです。ペテロは強くなるでしょう。しかしその前に、彼自身が生きるのではなく、ペテロの中にキリストが生きるためなのです。そのためには、彼は全く弱くならなければならないのです。それは、神の力は弱い者の中で力強いものとなるためです。
 ペテロは、地の果てに至るまで、神の証人となる人物です。そのために、先ず自分の義が完全に無に帰さなければならなかったのです。使徒として「豊な実を結ぶ」ためには、一粒の麦は地に落ちなければならないのです(ヨハネ12:14)。
 ペテロが大祭司の邸の塀のそばで、人間としての自分が打ちのめされましたが、この打ちのめされたペテロを再び立ち上がらせるのは、主がかつて自分に語られたあの冒頭の言葉を思い起こすことでした。
 主は、「わたしの子羊を養え」(ヨハネ12章)と再び任命するあの恵みは、神の言葉です。それは、ペテロに対する主イエス・キリストの「赦しの言葉」です。迫害と殉教の中で証し人ペテロを強め武装させるみ言葉です。
 神よ、どうか私をお用いください。あなたのお言葉の招きにお応えし、私をお用いくだい、と祈るペテロに変えられたのでした。
 
   今月のことば2e8194b0.jpg
 
 「あなたがたがマッサでしたように、あなた方の神、主を試みてはならない」
(申命記6:16)。
 
 人は困難に出会う時、戸惑います。誰かに誘われて来たことが、思い掛けない出来事に遭遇いたしますと、どうしてこんなところに、こんなことに・・・と思います。冒頭の聖句は、モーセと言う人物に対して、エジプトで悲惨と失望の奴隷の状態から救い出された民がつぶやいたことへの警告の言葉です。希望を持って出立したはずが、そうでない困難に直面した時に陥るのが「神を試みる」ことです。信頼した」したがそうでないかのように思う時、人は、その時の指導者に不信を抱き、時には裏切られたと不満を持ちます。
 
 「神を試みる」ことへの警告をモーセは、神の慈しみを繰り返し経験しながら、それに信頼せず、どんな時にも疑念を抱いてつぶやく者は、神を侮辱する者であって、神の父としての慈愛を試し、最後には、神は無感謝な者から、その助けの手を引いてしまわれるかもしれないようなことまでしてしまうのです。日本人には「恩知らず」という言葉がありますが、信仰者にとって神を試みることは、それ以上のことなのです。
 
 「神を試みる」は、今までの神の愛や恵みをないがしろにし、その慈しみを弄ぶ危険な遊びになります。信仰を与えられた者でも、神の慈しみが十字架での厳しい中に示された救いを知りつつも、神を試みると言う危険な遊びに陥るのです。
 
 私たちの魂が、素直な真面目さ、困難に立ち向かう勇気を祈り求め、改めて自分自身を貧しい罪人として認め、主を試みるという危険な遊びに陥らぬような日々・人生でありたいと心から願うものです。
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 「わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、闇のうちにとどまらないようになるためである」。(ヨハネ12:46)。
 
 2011年の世界はどうなるのでしょうか。2010年のような年であって欲しくないと願っています。
 光は、「この世にきた」。しかし、目を持つすべての人が、それを見ているのではありません。この光を見るためには、普通の視力を持つ目とは違ったものが必要です。この光を見ることが出来るのは、「信仰」です。ですから、光はこの世に来て、ずっと以前からそこにあって輝いているにもかかわらず、不信仰なこの世は、その光を知らず、認めないのです。しかし、神様の愛と恵みである信仰をいただいている人々は、それを見るのです。そうして、新たな発見をするのです。日毎の歩みの中でするのです。
 「光」を見ると同時に、信仰は、自分自身を発見します。不信仰が重大であるのは、それが私たちを、そのありのままの人間を見えない者にすることです。信仰が目を開く場合には、私たち自身の姿を、人々や世界を暴き出すと共に、新しい何かを見るのです。それは、「希望であったり使命であったり」するのです。
 
 「信仰」は悲惨や失望に対して無関心にはさせません。自分自身を含めて、日々、光が与えられなければ生きられません。幸いにして、不信仰な者が神様を認めなかった状態から、信仰者とされた者は、どのようにして人々に、世界に「光」を伝え、悲惨と悲しみから救い出せるかを真剣に考えさせます。キリスト者として、この世の苦しみや悲しみに無関心であることなど、あり得ないことです。もしそうなら、キリスト者の信仰の方が、どこか間違っているのです。
 
 この世にきた光、命の泉、渇きを癒す水を飲んだ者は、その泉を示し、水を指し示せないことなどあり得ません。信仰者は、その責任を神の召しとして感謝して受け止めると共に、多くの人々に、「光のあることを知らせる」今年でありたいと思います。  
 
 主はわれを導きて
 天の牧場へ連れたもう。
 生ける水は静に流れ
 ゆたかなる救いはそこにあふる。 
   今月のことば
  
   いつも感謝していなさい。
        (コロサイ3:15)
 
 感謝は、誰もが求めるものです。キリスト者にとってのそれは、何か礼儀正しい生活を送るための一つの指針・規範や立派な道徳のように考える人はおりません。またそれは、美しく細やかな感情のようなものでもありません。それ以上のものです。
 感謝と言うものは、極めて平凡で、日常的で、実際的なもので、尚且つ、私たちの行為の原動力です。キリスト者にとって、感謝は、生活の全てでもあります。その源は、私たちの側にはありません。神様が私たちのために与え、備えてくださったものです。キリスト者は、神様が、私のために何をなしてくださったかを知り、信じる者です。もし仮に、感謝できないとするならば、改めて、神様が私のために何をなしてくださったかを、時間を用いて捜し求めなければなりません。その営みを、朝ごとに、夕べに行うことです。
感謝の思いは、人間の都合や尺度でとらえるものになる時、感謝は私利私欲や打算が優先する時、その思いは汚れ、祈りは小さく貧しいものになるのです。
「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである」(Ⅰヨハネ4:9)。
私たちのクリスマスはとても人間的です。自分を楽しませるものです。しかし、本当は神のクリスマスなのです。神のクリスマスは、いつまでもクリスマスであり続けます。
あなたが世に来られたクリスマス。あなたによって生きる喜びを得させて下さったクリスマスは、全人類の希望であり、感謝そのものなのです。32bbcb9f.jpg
 
 クリスマス草
 
小さな鉢に 咲いた紫の花
その名前を 姪たちも 義妹も知らない
 
イエスさまが お生まれになった日が近いから
クリスマス草と呼ぼう
その花言葉は まことの愛   水野源三「み国をめざして」第4詩集より
   今月のことばc9518434.jpg
 
(あなたがたは)神を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。
(エペソ1:13~14)
 
 キリスト者の生活は、そうでなかった時の生活とでは根本的に変り、新しい生活になります。日々の生活の中に祈り、感謝し、讃美することがごく自然のこととなります。また、ほめたたえ、捧げ物をいたします。説教を聞き、献金をし、聖書研究の集まりに参加したり、時間を作って自分の学びをなし、教会の礼拝では聖餐に与り、食前の祈りをするのです。これら一つ一つは、日々の生活に喜びがなく、平安がなければ行えないでありましょう。
 信仰者の生活が、隣り人の目に無意味で何の喜びもない姿であるなら、言葉で、愛、希望、救い、永遠の命など、何の意味もなさないものになるでしょう。ましてや、一人静にひざまずいて祈ることなど想像すらできません。死せる信仰もまた存在するのです。
しかし、信仰者の生活は変えられます。「神を信じた結果」「主はわたしたちを緑の牧場(まきば)に伏させ、いこいのみぎわにともなわれ、・・・、わたしの魂をいきかえらせ、・・・。わたしたちはとこしえに主の宮に住む」(詩篇23編)者に変えられるのです。
人は、信じることによって、主イエスの命に与り、キリストに生きる者に変えられるのです。信仰生活は、約束を目指して生きることでもあります。しかし私たちはどうでしょうか。新しくキリスト者として生きているだろうか。聖霊の証印を押された者として信じているだろうか。私たちは神の国の相続人なのだろうかと、戸惑う思いに陥るのも事実です。
見せかけの信仰であることを認め、それを打ち砕かれ、「私」を取り去り、神の私に変えていただく歩みを挫折の日々であっても、繰り返し、繰り返し祈り求めたいものです。
 (写真・ツユクサ)
 
 
8026804b.jpg        今月のことば
       すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。
                     (ヨハネ1・9)
 
 都会の夜には、光が氾濫しています。夜空を見上げても明るさに遮られて、星の輝きを見ることは出来なくなりました。暗闇の中は不安です。人は光を求めます。心の闇は、何に例えることが出来るでしょう。日々の生活に光が射し込むか否か、時代と世界に、まことの光が来たとは、なんと言う驚きでしょう。
 しかし、私たちの周りには、心を惑わし、滅びと絶望に招き入れる「まことの光」でない様々な光と呼ばれるものがあるのです。光のように見えるけれども、それは「偽りの光」なのです。それを識別することは不可能なことです。自分の目や勘や知識や経験は役に立たないのです。
 
 この世に来られた光は、様々の偽の光をそのあるがままの姿で、偽りの光として、識別させる光なのです。この「まことの光」はすべての人を照らす光ですが、それに対して、私たちは、自分を開くことも出来ますし、閉ざすことも出来ます。それに対して心を向けることも出来ますし、背を向けることも出来ます。もし私たちが、夜と霧の中で惨めな姿で滅びることを願わないなら、まったく違った仕方で、この「まことの光」のもとに行かなければなりません。
 
 すべての人を照らす光とは、神のみ言葉です。今必要とする光は個人的に必要なこと、社会に必要なこと、また、教会(人)に必要なことは、ただ一つ、私たちにまだ可能な間に聖書を読むこと、神のみ言葉を聞くことです。ただ一つの明るい光を求めて!! 
 
  いま生きる私への
遠い遠い昔に
生きる望みをなくした人に
キリストが語られた御言葉を
いま生きる私への
御言葉として聞かせてください15fb8ca2.jpg
 
サマリヤの井戸ばたで
命の水を求めた人に
キリストが語られた御言葉を
いま生きる私への
御言葉として聞かせてください
 
ガリラヤ湖の岸辺で
真の道を探す人に
キリストが語られた御言葉を
いま生きる私への
御言葉として聞かせてください           水野源三著・第4詩集「み国をめざして」
 
 いちい(おんこ)の実i
   今月のことば
 
何事についても、敵対する者どもにろうばいさせられないでいる様子を、聞かせてほしい。
(ピリピ1:28)
 
 信仰の勇気か死の軽視か 
 
この世には、英雄的な豪胆不敵という人物がいつの時代にもいますし、それを求めます。特に戦争に関係する事柄の中に多いのです。そうです。死に向かって進む覚悟を与えてくれる心の状態と言うものを、この世はよく知っています。軍服を美しく飾る姿は死の軽視を表しているでしょう。目的はどうあれ、死の軽視は、陶酔から生まれ、また、冷徹な計算から生まれます。
 ところで、教会も戦いを知っています。ピリピ1:28を読みますと、使徒パウロは、明らかに、キリストの教会には「敵対する者」がいるだけでなく、それが強大な者たちだということも知っていました。彼らによって「ろうばいさせられる」強大な者たち、「逆らう者」たちの赴くところは「死の軽視」ではなく、「死」そのものです。
 
 聖書によって死とは何かを学ぶことを知っている「キリスト者」は、死への恐れと死に際しての確信を抱きはしますが、しかし、「死の軽視」などという思いは決して抱くことはありません。「キリスト者」は、弱さと不確かさと臆病を、よく知っています。「キリスト者」は堅忍不抜の英雄ではありません。むしろ彼らは、弱い羊であり、幼児です。確かに、「キリスト者」の勇敢さ、大胆さを持ち合わせてはいますが、それは高鳴る血潮から生まれるものではなくて、むしろ、聖霊の恵みの賜物です。聖霊は、私たちに、真理を固持し、義を固守する勇気を与えてくれます。それは、私たちを、生命や財産に至るまでのあらゆる犠牲を厭わぬ者にするためです。
また、「敵対する者」に対して信仰告白を行う用意をさせます。一人であれ、一群であれ、聖霊から来る勇気に依り頼む者には、死と敗北があるにしても、そこには何か抗しがたいものがあり、不思議な抵抗があります。神以外のものに信頼しない者に敵対する者は、やがて敗退するのです。それは、神に対して敵対していたからなのです。
 
わがよろこび、わがのぞみ、
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わがいのちの主よ、
ひるたたえ、よるうたいて、
 なおらぬをおもう。    (讃美歌527)
 
   今月のことば
 「主に愛される者、彼は安らかに主のそばにおり、主は終日、彼を守り、その肩の間にすまいを営まれるであろう」(申命記33:12)。
 
  あなたのすまいは・・・
 
多くの人は、安らぎの場を住いに求めます。新聞の折込には、様々な住いの広告があります。「近代的な住い」「実用的な住い」「健康的な住い」「エコ住宅」「格安な住い」などの文字や言葉を目にします。
 モーセは、「安らかな住い」として掲げていることは、私たちの願いとは根本的に違ってます。安らぎを得るためには「安全」は大きな要件です。盗難、災害から守られるための保険や安全保障会社に守られるためにお金を費やしています。
 しかし、私たちは、真に安らかな住いがどこにあるかということを、あまり感じ取っていないことに気付いていません。たしかに私たちは、墓の中に住んでいる者ではありません。混乱と不安の大地に住んでいます。安全保障会社は「安らかな住い」を保証いたしません。それに委ねるのは、この大地が「不安」であることを証明しているのではないでしょうか。
 
 しかし、もしこの大地に平安があるとするならば、それは、ただ神のもとにしかないのです。「主に愛される者、彼は安らかに主のそばにおり」、まさにその「主に愛される者」は、絶対に安らかな住いが地上にはないことを知っています。
 主イエス・キリストは、その訣別の前に、「わたしの父の家には、すまいがたくさんある」と言われ、自分は弟子たちのために「場所を用意しに行くのだ」と言われました(ヨハネ14:2)。それは、「主に愛される者」のみが知っている、ただ一つ安らかな「すまい」であり、主が私たちのために建てて用意して下さった「すまい」なのです。
 その永遠の「すまい」に入居できる資格を持つ者は、この地上の住いをキリストの信仰の故に捨てた者のみが、キリストが用意して下さった永遠の家に住むことが出来るのです。
「主に愛される者」は、強い者ではなく、知恵のある者ではなく、正しい者ではなく、勇気ある者ではなく、敬虔な者ではなく、ただ、「主イエスを救い主と信じ、主に愛される者」のみが、「安らかなすまい」の居住権を得ているのです。
 
 主にありてぞ われは生くる、
 われ主に、主われに ありてやすしs-IMG_0043.jpg
 
 主にありてぞ われ死なばや、
 主にある死こそは いのちなれば
 
 生くるうれし 死ぬるもよし、
 主にあるわが身の さちはひとし、
 
 われ主に、主は われにありて、
 天こそとこよの わが家となれ。    讃美歌361 
                                                   
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
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横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
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ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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