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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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   今月のことば8a909ae6.jpg
  
  讃美歌
 
 詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい(エペソ5:19)。
 
 あらゆる時代のあらゆる地域の人々は、歌を歌ってきました。一人一人、自分の仕方で歌ってきました。民衆の歌や愛の歌、仕事の歌や生活の歌。その歌の中心は、生きることと愛することと死ぬことであったと言えましょう。それがこの世の歌の三和音といえるでしょう。それらの歌は、私たちの血管を流れる血のざわめきに似ています。時には天にまで届くような歓声であり、時には死ぬほどに打ちのめされた絶望の叫び、また、心の心情に応じた歌であります。
 これらの歌には、一つの共通しているものがありましょう。それらの歌は、時に楽しげな歌、心の解き放たれた自由を歌いあげていても、その根底には物悲しい響きがあります。それは、決して不思議ではないのです。それらの歌は人間の歌であるからです。喜びや希望を歌い上げても、真の喜びを歌い上げていないからです。
 キリストの教会の歌も、人々の中で歌われています。しかし、喜びや希望、また死を歌っていても、そこには、人々の救いのために捧げられたイエス・キリストの愛と血と死があります。
 神のもとでは、死は最後ではなく、甦りと永遠のいのちがあります。讃美歌は、この世の歌とは違い、たとえ苦しみや悲しみ、愛であっても、その讃美歌の根底には、神のいのち、愛、死が歌い上げられています。すべての讃美歌の三和音には、信仰・希望・愛があります。
 教会とわたしたちひとりひとりに、讃美と感謝のために新しい歌を歌い続けましょう。
 
 朝静に
朝静に  この一日の
御恵みを 祈りおれば
わが心に あふれくる
主イエスにある安らぎ
 
朝静に  霊の糧なる
御恵みを 学びおれば
わが心に あふれくる
主イエスにある望み
 
朝静に  新しい一日を
たもう御神 たたえおれば
わが心に あふれくる
主イエスにある喜び     水野源三「今あるは 神の恵み」
 
 
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   今月のことば6dddbfc2.jpg
  
  聖霊の力
 
 ニコデモは言った、「人は年をとってから生まれることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができるでしょうか」。(ヨハネ3:4)
 
 人はある年齢に達し、それを越えた場合には、いろいろのことは過去のことになってしまいます。年老いた者には、どうにもならない虚しい人生の中の日々になります。老木に新しい芽が出たときの喜びは、ひとしおの感があります。
 諺や人々の語る言葉に、「稽古ごとは若いうちに」とか「栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し」とか、「なにごとも四十歳まででなければ」とか、四十歳というのが一つの境目であるかのように思われています。誰であれ、いつまでも若く楽しく華やかで生き生きとあり続けたいと願うものです。
 
 ところで、主イエスはこのみ言葉の人ニコデモに、新しく生まれるようにと勧められます。老人であったニコデモにとって、この主イエスのお言葉は希望を与えたでしょうか。不可能の淵に落とされた思いをしたとしても不思議ではありません。主イエスは、この不可能にさえ思えることを、可能であると言われるのです。人にはできないが、聖霊には可能なのであると言うのです。
 老いの坂を登っている者も、希望を求めて歩む者にも、聖霊は光と喜びとしての新しいいのちを下さいます。キリストに生きると言う新しい生き方を与え、新しく生まれる喜びを約束して下さいました。
 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国にはいることはできない。肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新しく生まれなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。」(ヨハネ3:5~7)
 その不思議な約束を信じて生きているのがキリスト者なのです。 
   86cfa171.jpg今月のことば
  
人間的栄光
 「わたしから離れては、あなたがたは何一つできない」。
                   (ヨハネ15・5)
 
 人はイエスから離れてでも、様々なことが出来る。私たちは、結婚することも出来、家庭を築くことも出来る。仕事に取り掛かることも出来れば、事業を行うことも出来る。病人を治療することも出来るし、子供をもうけることも出来る。人々を様々な手段で悪や誘惑に誘いこむことも出来る。或いは、生きることも、死ぬことも出来ると思う。
しかし、それをイエスは「無」と呼ばれる。
 
イエスなしでも私たちは、建物を建て、橋を架け、空を飛ぶことも出来る。同時に、その建物や橋に火薬を仕掛け破壊することも出来る。空を飛び他国を攻撃することも出来る。私たちは何事もする・した・してきたと思っている。
 しかし、それをイエス「無」と呼ばれる。
 
 人には出来ないことがある。
人間的栄光を審くことである。古い道から新しい道へと歩ませることである。今に喜びと、未来に希望をもたらすことである。人々を愛し祈る心(信仰)をもつことである。
 人には出来ないが、主イエス・キリストには出来る。
 
 「神はあなたがたをかえりみて下さるのであるから、自分の思い煩いを、いっさい神にゆだねるがよい。身を慎み、目をさましていなさい。あなたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。・・・あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。どうか、力が世々限りなく、神にあるように、アァメン」。
(Ⅰペテロ5:7~10)
   今月のことばs-IMG_0033.jpg
 
   トマス
 「(イエスは)トマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)
 
 このみ言葉は、人への叱責ではなく、トマスをとおして私たちに語られたイエスの大きな憐れみと慈しみをお示しに下さいました。トマスは特別な人間ではないように思います。常識的で、曖昧さを嫌い、きちんとした心の持ち主のように思います。イエスの甦りを信じていても、現実にそのことを私たちが問われた時、事実としてよりも、信仰として捉えようと思うところがあります。死者が甦る、イエスの死を目の当たりにした者が、三日目に甦る事実を、信じて疑わないことの方が不思議です。ペテロは、「それが愚かな話のように思われた」(ルカ24:11)ので墓の中を調べましたが、その時は半信半疑であったでしょう。それは、ペテロは、甦られた方との最初の出会いの後ではじめて信じることが出来ました。
 一般に、「疑い深いトマス」と思われていますが、信じるためには先ず明白な証拠が示されなければ納得できないのが普通の人間と思います。このようなトマスに主イエスは叱責されません。疑いながら信じるトマスをお求めになりませんでした。その疑いを払い除け、信仰者として生きるトマスをお望みでした。
 この冒頭のみ言葉は、神の深い愛と素晴らしいお導きを示してくださいます。私たちはトマスです。否、トマスにはるかに及ばない者です。信じることが難しい状態の中に日々を過ごしています。私たちは、イエスの御傷に触れることは出来ません。だからこそ、トマスに示されたイエスのお言葉が支えになり、慰めになり、喜びになるのです。
 「兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起こしてもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べつたえたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである」(Ⅰコリント15:1~2)。
   今月のことば
 
 キリストは、わたしたちを愛し、その血によって罪から洗い・・・・。
                  (黙示録1:5)
 
 このみ言葉は、罪の赦し、救いの確かさを教えてくれる大切なものと言えます。私たちは、日常の生活の中で起こる一つのことで、後々まで不快さが残ることがあります。その一つに、相手の不行きとどきを知った時にとる行動です。その場合、私たちはその原因を確かめ、改善の名の元に、少しきつい表現ですが「あばき出す」とか、「善意の忠告」とかで、相手を非難することがあります。そうして、これも付け加える言葉ですが、「別に悪気があって言っているわけではないんだよ」とか、「悪く思わないでね」とか、「あなたを愛しているから、多少厳しく言い過ぎただけ」とかの弁解が私たちの中にあります。
 
 しかし、キリストは異なります。それは、「キリストの洗い」です。先ず確りと手を差し延べて、私たちの頭も心も洗われることです。それは、キリストは、先ず愛して、その上で洗われるのです。キリストの洗いもまた信じ難いことです。その御業には、何時も愛が先行しています。キリストは、わたしたちを愛し、その血によって罪から洗い・・・・、
なのです。
 その洗いの確かさは、言葉としての愛ではありませんでした。その愛の御業の場所はキリストが死なれたあの十字架以外にありません。キリストは、先ず私たちを愛して、その血によって罪から洗ってくださる御業があります。キリストは、私たちのように、改善を求めません。常に、十字架のキリストの洗いを信じて「悔い改め」を待っておられることを、感謝を持って覚えたいものです。
  
   十字架の愛
主イエスが歩まれた道は
昔も今も誰も歩いたことがない
主イエスが歩まれた道は
私をまことの道へ導くため
歩まれた十字架の道 
 
s-IMG_0022.jpg主イエスが語られた言葉は
昔も今も誰も語ったことがない
主イエスが語られた言葉は
私を罪の中から救うため
語られた十字架の言葉
 
主イエスが示された愛は
昔も今も誰も示したことがない
主イエスが示された愛は
私の心に愛をみたすため
示された十字架の愛      水野源三「今あるは 神の恵み」
 
 
   今月のことば
 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。(ローマ5:8)
 
 キリスト者なら、誰もが驚くことの一つに、私たちがまだ神様を知らなかった時、神様は既に私たちを知っておられた。私たちがまだ神様を呼び求めなかった時、神様は既に私たちの名を呼んでくださったという事実です。しかも、私たちがまだ罪人であったときに、と言われます。
 私たちが自分の罪に驚く以前に、自分の汚れと不完全さを認める以前に、神様が禁じられる全てのものをまだ好ましいと思っていた時に、罪を憎む以前に、反省する以前に、悔い改めて神様のみもとに立ち返ろうとする以前に、まさに「まだ罪人であった時に」に、キリストは、私たちのためにその命を捨ててくださったのです。
 神様の愛と主権的な選びは、これほどまでに完全であり、絶対的でありました。私たちは自分の生涯を振り返る時、後悔が伴います。しかし、そこには何の希望も喜びも存在いたしません。有るのは諦めです。しかし、神様の愛とご計画をもって、神様の方から救いのみ手をさし伸ばし、キリスト者をして招いてくださいました。
 私たちのために十字架に赴き、パンとぶどう酒を差し出し、私たちの罪のためにそのパンを割きぶどう酒を注がれたのは、神様の愛でした。この驚きは感謝の驚きです。暗く悲しい現実に押し潰されそうになる時、神様に知られている幸いを今一度かみ締めたいと思います。
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 キリストの愛に触れてみよ
 
幾度も聞いても読んでも
キリストの愛の尊さは
触れなければ分からないから
キリストの愛に触れてみよ
キリストの愛に触れてみよ
 
幾度も思い考えても
キリストの愛の確かさは
触れなければ分からないから
キリストの愛に触れてみよ
キリストの愛に触れてみよ
 
涙を流して感動しても
キリストの愛の嬉しさは
触れなければ分からないから
キリストの愛に触れてみよ
キリストの愛に触れてみよ    水野源三第四詩集「み国をめざして」
   今月のことば
 
 どうか、平和の主ご自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和を与えて下さるように。(Ⅱテサロニケ3・16)
 
 2010年が平和な年であって欲しいと願っているのは、この地上に存在する者の等しく願うことです。悲しいことですが、現実は2009年の負の遺産を引き継いでいます。誰もが平和の尊さを知っています。平和への憧れを持っています。平和であった時のことを思い語ります。しかし、「平和自体」というのは存在しないのです。
 「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」(マタイ5・9)とあるように、つくり出すのも人であると同時に破壊するのもまた人である事実を確りと認めなければならないのです。
 クリスマスが来てキリストが世界に平和をもたらす方であることを知りました。しかし、私たちは、つくり出すことの困難さを知ることです。私たちが、平和の神とどれだけ不和・不仲であったでしょう。この神との不和・不仲は私たちの側に責任があります。平和の神が手を差し伸べているにも拘らず、それを拒否しているのは私たち人間です。
 平和の主は、先ず神と私たちの不和・不仲を和解させることのために十字架にお架かりになりました。
 人と人との平和、国と国との平和は、キリストにおいて一つとなると真に願うと共に、如何に謙虚に他の人に仕えることが出来るかにかかっています。本当に困難なことです。だからこそ、諦めることなく「平和をつくり出す」歩みを始め、神の助けを祈り求めたいのです。
 
  今年もs-200912191220000.jpg
主よ
粉雪が降っていますが
私の部屋には 福寿草が咲きました
 
主よ
あなたがともにおられることを
いついかなる時も 教えてください    水野源三第三詩集「今あるは 神の恵み」
   今月のことば
  s-P1000631.jpg神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである(Ⅰヨハネ4:9)。
 
 聖書は不思議な書物ですね、と言われる方がおられます。「今月のことば」の「それによって」も不思議な、しかし、想像を超えた事柄を語り・示しています。
 私たちの人生は、いろいろの快適なものを提供してくれる時・場であります。そのような私たちにとって最高のものは「神様からの愛を知り、神様に感謝する思いを与えられていることを知ることです。
 争いと貧しさ、希望を見出せない日々が、一夜にして私たちに襲い掛かってくるのも事実です。そのような思いがけない出来事で、神の愛を知る喜びが奪い取られる経験もいたします。そのような場合、「神の愛」は無力なのでしょうか。そのような時こそ、この「それによって」私たちに対する神の愛が明らかになるのです。
 クリスマスを知ることは、特別な機会となります。「それによって」(神が御子を世につかわされたという、そのことによって、そのことによってだけ)神の愛が明らかになるのです。
 
 親しみのあるあの楽しいクリスマス・ツリーの燈火も、「それによって」いなければ、ただの飾り物になってしまいます。神のクリスマスの事実そのものが、いつまでもクリスマスであり続ける限り、人類に光として輝き続けるでしょう。
 
  空に光る星よ
空に光る ほめたたえよ
わが罪のために わが救いのために
人となりたる御子イエスは
死ぬほど悲しみ 祈りをささげたもう
 
こずえに鳴く小鳥よ ほめたたえよ
わが罪のために わが救いのために
人となりたる御子イエスは
十字架を負い つまずき倒れたもう
 
野辺にかおる花よ ほめたたえよ
わが罪のために わが救いのために
人となりたる御子イエスは
固く釘づけられ 御血を流したもう    水野源三第三詩集「今あるは 神の恵み」
   今月のことば
 「感謝」、この言葉には限りない喜びが溢れています。キリスト者にとって、礼儀正しい生活を送ることは素晴らしいことです。しかし、その生活を送るための一つの規範に「感謝」がなるものではありませんし、立派な道徳というのでもありません。またそれは美しく細やかな感情というものでもありません。むしろ、それ以上のものではないでしょうか。
 キリスト者にとって、「感謝」というものは、ごく平凡で、実際的なものであり、日々の生活の力として、神様が下さった「恵み」です。時として、いろいろの出来事に翻弄されて、感謝の根拠を見失うことが多々襲って来ます。そうであっても、「感謝の根拠」を失ってはいません。それは、神様からの永遠の福音であり、イエス・キリストの使信だからです。
 その事実は、十字架において神様がして下さった救いの愛は、否定のしようのないものです。この事実に、キリスト者は、いつも、そして朝ごとに新しく、感謝すべき根拠を頂いて、一日を始めるのです。この恵みに対して十分に感謝することは到底不可能です。この恵みに比べるならば、私たちの感謝は、生涯かけても小さすぎるのです。
 神のご好意(行為)に対する感謝は、悲しくても喜びを、不安であっても夢を持ち、暗闇の只中でも光となるのです。そこには、醜い打算や思惑など入り込むすきまはありません。
 「あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着も与えなさい。もし、だれかが、あなたをして一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい」(マタイ5:40~41)と言うみ言葉は人の思いを越えていますが、「感謝」はその思いへと変えるのです。これは、神の業-神様へのキリスト者の思い-「感謝」から出るものです。
 
キリストの()愛に触れたその時にs-200910040935000.jpg
 
キリストの()愛に触れたその時に
キリストの()愛に触れたその時に
私の心は変りました
憎しみも恨みも 霧のように消え去りました
 
キリストの()愛に触れたその時に
キリストの()愛に触れたその時に
私の心は変りました
悲しみも不安も 霧のように消え去りました
 
キリストの()愛に触れたその時に
キリストの()愛に触れたその時に
私の心は変りました
喜びと希望の 朝の光がさして来ました     水野源三第三詩集「今あるは 神の恵み」

*ノボタンです。鉢で大事に育てています。 
s-200909221022000.jpg   今月のことば
  
   夜の祈り
 聖なる神よ、あなたのはかりしれぬ愛をたたえます。あなたは、霊の相合うことをよしとされ、わたしのような弱い、罪ある死ぬべきものが、星々を動かされる方の心にこうして語りかけることをゆるしてくださいました。
 
 悲しみと悔いの心をもって、み前にわたしのいやしく身勝手な思いをみとめます。その思いは、しばしばわたしの心にはいりこみ、わたしの行いを動かします。
 
 神よ、わたしはざんげいたします。
  わたしの心が、けがれた、禁じられた道にさまよい出ることを
  わたしのつとめが明日であるのに、自らあざむくことを
  ほんとうの動機をかくすことによって、自分を実際よりもよく見せようとすることを
  正直さを、ただ策略として用いることを
  友人に対する愛情も、ただ自分を求める美化されたかたちにすぎないことを
  敵をゆるすことが臆病にすぎないことを
  わたしがよい行いをするときは、人にみられるためであり、悪い行いをしないのは見つけられるのを恐れるからであることを
  
 聖なる神よ、あなたの愛の火をわたしのたましいにおくり、そこに渦巻くこのようないやしさと偽善とを焼きつくしてください。わたしのたましいを幼な子のようにしてください。
 
 神よ、どうかきよい誠実な願いをもって、きょうわたしの接したすべての人のために祈ることができますように。友人たちを愛のうちにおぼえ、敵をゆるして、彼らすべてをわたしの心と身とともにあなたのみ守りのうちにゆだねます。
   イエス・キリストによって    アーメン
(J.ベイリー著 新見 広訳「朝の祈り 夜の祈り」)より
 
   今月のことば
 
  ほかの9人は・・・。
        (ルカ17:17)s-200908140756000.jpg
 
 10人のらい病人が、遠くから主に呼びかけます。彼らは、悲痛な思いで、声を張り上げて叫んでいます。しかも彼らは、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」(17:13)と実に切実に叫んでいます。その叫びには偽りはありません。
 私たちも、どれほど度々、「神様、神様」と叫んだことでしょう。10人のらい病人たちは、彼らが願っていたことを叶えていただきました。
 ところが彼らのうち一人だけが引き返してきて、その願いと感謝が真剣な思いであったことが分かります。ところが、他の9人は、自分たちの癒しを、どこか別のところで祝っていたのでしょうか。彼らにとっては、今やこのイエス様と言う先生は、以前の半分も愛すべき方ではなく、興味ある方でさえなかったのでしょう。
 
 そこでイエスさまは、「きよめられたのは、10人ではなかったか。ほかの9人は、どこにいるのか」と言われました。この救い主の問い掛けは、今日まで、全世界の中を貫いて響いている問い掛けです。感謝を忘れた9人は、人々の中にいるのです。否、この9人は私たち自身の姿であります。私たちは何度神様に許しを請い、悔い改めを繰り返してきたことでしょう。
 
 私たちは、悲しみに陥った時、不安や絶望に襲われた時、そればかりか、何の問題も無い時、私たちは感謝の祈りと共に、許しと救いを請い願ってきました。私は思うのです。自分の臨終の時、悔い改めの思いがあるだろうか。否、神様への感謝の思い、神に栄光を帰するだろうか、と。どうぞ終わりの時、悪魔に抵抗し、感謝と讃美でその時を迎えることが出来ますように、今の時から感謝の思いを造り出してください。
 
(わが家のヘブンリーブルーなぜか縞模様です)
   今月のことば
 
     喜びの叫び

 望みをいだいて喜び・・・
(ローマ12:12)
 
 キリスト者ばかりでなく多くの方が聖書を読まれます。しかし、聖書が歓喜について語る場合、他の場合に歓喜と呼ぶものとは、根本的に違うことにお気づきと思います。私たちの普通の喜びは、私たち自身の側のこと、心地よい快適な状態にあります。誰でも、自分が悲惨な状態になった時、それを喜ぶことなどありえません。私たちとは、自分が「ご機嫌」な時だけ喜ぶのです。
 聖書が示すキリスト者の喜びは、それとは異なっています。現在の状態ではないのです。その最も深い喜び、言い換えますと「前喜び」に対して希望を持って喜ぶというのです。先のことなど分からない。先を考えると不安になるのは、この「前喜び」を持っていないからではないでしょうか。
 将来に望みがある。未来に希望がある、光がある人生は、現在起こっていることには決して、その根拠を持っていません。そうではなく、現在も、キリストを信じる信仰によって苦しくても喜ぶ、悲しくても希望を抱いている、それがキリスト者の特徴です。キリスト者は「痩せ我慢人間」ではありません。むしろ、今をきちんと認めています。罪深さ、不完全さ、弱さ、汚れを認めています。この負の自覚を神様によって変えられると言う、考えられない招きを信じるのが、キリスト教信仰です。
 
 詩篇の中に「苦しむ者はこれを聞いて喜ぶであろう」(34:2)という驚くべき言葉があります。使徒パウロも「望みをいだいて喜び・・・」と言います。教会は、現在という時の中にあって、希望を失い、喜びを捜し求めている方々に、教会は「喜びの叫び」をあげなければならないのです。気難しい心、強張った顔からは「喜びの叫び」は上がらないのです。
 ニーチェという哲学者は、皮肉を込めて「私に、彼らの救い主を信ぜよと言うのであれば、彼ら自身の様子が、もっと救われた者らしくしなければならない」と言われたとか・・・。
 キリスト者の「喜びの叫び」を声え高らかに上げようではありませんか。
 
 
 真の平安
朝から小鳥がさえずりs-200906281607000.jpg
草花が香っていても
神のみもとへ帰るまでは
真の平安はない
友だちと言葉をかわし
家族に囲まれていても
神のみもとへ帰るまでは
真の平安はない
私たち一人一人を
ご自身のため創られた 
神のみもとへ立ち帰って
真の平安を得よう
 
水野源三第四詩集「み国をめざして」
=写真=娘と同い年の子が、給食にでたびわの実を蒔いたら大きく育ちました。隣の家のびわの実です= 
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書籍紹介
    8858e3b6.jpg
エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
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定価(本体1300円+税)
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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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