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「今月のことば」
ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます。
=ルカ14:22=
このみ言葉は、招待を受けた者への教訓と言われている箇所の一部ですが、ある客の一人が「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言ったと記されています。
今日ばかりでなく、いつの時代でも世界は争いと悲惨な出来事を繰り返してきました。希望のない、暗く、侘しいものと思う人も多いことでしょう。平和を願うと言いつつ、その歩みは争いへと突き進んできました。人がいる限り、尊厳を願い、求めつつも、反面、そこでも「XXXハラスメント」という言葉で言われていることが身近に起きています。
学者や専門家はその解決のために原因を探り、答えを求めています。それは決して無駄でありません。
しかし、このような現実に対して、神は警告し続けています。神に敵対する
サタンは、力ある者を言葉巧みに誘い込みます。パンと富と名誉の罠を用いて、神のみ子イエス様を誘惑さえしたのです(マタイ4:1~11)。
しかし、イエス様はお答えになりました。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口からでる一つ一つの言葉で生きる」。
「あなたの神である主を試してはならない」。
「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」。と。
神より離れ、神なき知識には、そのサタンの力を打ち破ることはできません。暗闇と困難に追い込まれ、希望なき明日を、ただ迎えるとしたならば、何と虚しいことでしょう。
「今月のことば」は、私たちに希望を約束しています。「まだ席があります」とイエス様はお招きくださっています。
神様は、私たち一人ひとりに「まだ席があります」と言われている今があるのです。私たちから主のみ霊を取り去ってはなりません。この命のみ霊・み言葉・約束は、命のみ言葉、希望の光として働いておられます。
この「まだ席のある」、この「席」はこれから先も・・・、と言うことではありません。「今」という時です。私たちは、罪の赦しと、神との平和を願う思いをもっているなら、日々、神のみ前に進み出ましょう。
自分の罪を、神への背信を認め、悔い改めへの歩みを始めるなら、絶望する何の理由もありません。しかし、その席に着く時間は今なのです。「まだ」は何時までもではありません。何時か着く席はなくなります。そのことを忘れてはならないのです。
今月のことば
それからすぐ、イエスは自分で群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを船に乗り込ませ、向こう岸のベッサイダへ先におやりになった。
=マルコ6:45=
ニュースでは元号の変更に伴う経済効果が云々されています。その前はその名称が万葉集からであることで、本の売れ行きが話題になりました。動機はどうであれ、関心を持って古典に心を向けるなら、これも感謝なことではないかと思いました。
イエス様の奇跡によって、食料の問題を解決した人々は、イエス様を王にしようと望みました。弟子たちもまた、前途に明るい未来を見たのでした。弟子たちや民衆には、イエス様に従うことは、経済的にも引き合うことを、人々がわかってくれる日は近いかと思われたのです。飢えや乾きを解決することは、とても大切なことであることは事実です。
しかし、イエス様に対するこのような関心事から、人々を救わなければなりませんでした。そこで弟子たちを嵐の夜の闇の中へと送り出したのです。
ある時代、どこの国でもキリスト教会の役員になることは、社会的信頼の証であり、経済的な利益があるという考えを信者が持ち始めると、危険は近いのです。「きよくあることはすべてに有益である」と言うことは真実です。しかし、もし、経済的利得が、キリスト教的徳の報酬であると考えるならば、それは大きな間違いをしています。そしてもし、神の祝福をそのようなものと誤解するなら、イエス様は今でも、その愛する者たちを、その最も好ましくない道へと送り出すことがお出来になるのです。
イエス様は、困難と貧困の中に人々が苦労しているのを見ることを好まれません。またキリスト者であることで、物質や富を所有するよりも、口では言えないほどに、はるかに偉大であることを教えたいと望まれます。
苦しく貧しい時代は、多くの悲劇や争いを生み出しました。そのために、知恵を出し合い、支え合い、抜け出す努力もまた私たちは行って来たのも事実です。同時に、信仰をいただいた者は、信仰と忍耐と祈りと希望を得ているのです。失うことよりも与えることを学び、支え合い励まし合うことを望み、日々の生活の中でそれを体現することを学ぶのです。
嵐の中で弟子たちは何を見たでしょうか。イエス様が舟に乗って来られ、海が静かになった時、イエス様とは何者なのかを改めて知ったのです。
冒頭の聖句は、6章30節から52節の一部分です。お手元に聖書をお持ちなら、この個所を是非お読みいただきたいと願っています。
「神の国は飲食ではなく、義と平和と、聖霊における喜びである」からです。
今月のことば
わたしは確信する。死の生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。
=ローマ8:38~39=
<149>
1 とこよにわたりていわえ、 主はよみがえりたまいて、
よみのとびらをうちひらき、 主イエスは死に勝ちましぬ。
3 死に勝ちたまえるイエスよ、 み名をたたうるわれらを、
とわにつきぬいのちもて、 主イエスは死に勝ちましぬ。
アーメン
キリストにあって示され、人々の前に現われた復活の朝、完成された救いは、神ご自身のように完全であります。十字架に頼る罪人をとられている愛のみ手は、すべてに勝って強く、誰もそのみ手からキリスト者を奪い取り、引き離すことはなく、出来ないのです。本当に弱き私たちキリスト者は、この救いの恵みによって強くされ、不安なものが安全にされ、悲しむ者が喜びへと確かに導くのであります。
嵐が激しさを増すにつれて、錨は砂に深く食い入って、しっかりと船をつないでおくように、この世にあって神の子供は、困難や危険が最も多く激しい時に、救い主に最も近く、依り頼むのです。人は、見えるものに頼り、自分自身に頼る者ですが、主に信頼する者は、その信頼がむなしく、決して恥ずかしめられることはありません。
私たちの周囲に、嵐は激しく吠えたけり、悪の力は私たちを追い求め、病気、貧困、辱め、恥辱が私たちの心に、信仰につきまとう時でも、何物も主のみ手にある者を害することはできないのです。神への信頼は闇が光となり、希望となるのです。
「心をつくして主に信頼せよ、
自分の知識にたよってはならない」(箴言3:5)。
「主に信頼する者は、動かされることなく、
とこしえにあるシオンの山のようである。
山々がエルサレムを囲んでいるように、
主は今からとこしえにその民を囲まれる」(詩篇125:1~5)。
今月のことば
彼らはイエスを引き取った。イエスはみずから十字架を背負って、されこうべ(ヘブル語ではゴルゴタ)という場所に出て行かれた。彼らはそこでイエスを十字架につけた。
=ヨハネ19:17~18=
ゴルゴタ。驚くべき、きよい丘よ。その名を言う時、深い厳粛な思いの波に飲み込まれ、何とも言えない静かな喜びと心からなる感謝の思いが信仰者一人一人の魂を揺さぶる。
幾千万の人々、否、数えきれない人々、長い年月の間、私たち人類はあなた(救いの恵み主)を待ち望み、待望したことか。そうして時の続く限り、人間はあなたの御業を回顧する。日が地上を照らすように、十字架に立つあなたは、私たちの唯一の光であり続ける。
ゴルゴタ。そこで私たちは、木にかけられた、神にして人なるお方にお目にかかる。そこで神と人間とが和解のために出会い、罪はその審判と刑罰と死とを受ける。そこで蛇の頭は打ち砕かれ、敵意は滅ぼされ、和解の印を知る(創世記3:15)。
そこで天が開かれ、命の木に至る道が開かれる。そこに恵みのみ座が設けられ、わたしたちは、はばかることなく聖いお方に近づき、憐れみを受け、必要な時に助けをいただく恵みを見い出す。
ゴルゴタ。悪しき日の私たちの避難所、闇の中の光、荒れ狂う大海の中の堅い巌、沈みそうな船のための港、魂の碇、墓を通って永遠の命に至る道。
ああ、ゴルゴタよ。世はあなたを憎み、あなた無くしても道と港を見いだせると信じている。けれども、私たちは確かに知っている。人間のともした光がすべて消えた時、あなたが世を照らし、信じる者をすべてに永遠に完全な日へと導くことを。 アーメン
今月のことば
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。
=ヨハネ15:9=
私たちの願いは、神の思いを知り、神に愛され、神に信頼して生きることです。しかし、私たちの思いは、それとは程遠いものがあります。とうてい不可能なことでもあっても、そうありたいと思える神への熱い思いを願い求めたいものです。
この冒頭のみ言葉の中に、父がみ子を愛されているかという説明の中に、どれほど多くのことが含まれているでしょうか。聖書の中には、その具体的な一つ一つが記されています。是非、聖書を丹念にお読みください。「わたしを見たものは神を見たのである。…。わたしを信じたものは御父を信じたのである」という言葉が新約聖書の中にあります。そのことを通して、私たちは神様への思い、神様への信頼が日に日に増し加わるとするなら、信仰の恵みそのものと言えます。
神に創られた被造物、神に背を向けた罪人、有限な者が、無限者を知ることなど、不可能そのものです。それを可能にしてくださったのは神ご自身の愛と憐みの賜物です。
神の愛は、神ご自身の如く偉大であります。この偉大さの中でも最も偉大なこととして、私たちに訴えるのは、父がイエス様を愛したように、イエス様がご自分の者たちを愛してくださるということであります。父がイエス様を愛されたと同じように、私たちもイエス様に愛されるということ―これは私たちの理解を超えることです。
私たちは、イエス様にその命を失わせ、イエス様に反抗し、不従順でした。そしてなお悪いことには、救われた後にさえ不従順なのです。そうであるのに、主イエスは父が主を愛されたように、私たちを愛してくださるのです。
イエス様は言われました。「わたしの愛のうちにいなさい」と。この招きの御声に日々、信仰に望みをもって歩む3月でありたいものです。
今月のことば
それは主が悩みの日に、その仮屋のうちにわたしを潜ませ、その幕屋の奥にわたしを隠し、岩の上にわたしを高く置かれるからである。
=詩篇27:5=
2019年も2月を迎えました。この世界でこれからの出来事や人生のすべての謎を解きうる人はおそらく誰一人としていないでしょう。しかし、だからこそ、主なる神はすべてのことを良くしてくださると信じることで、十分ではないでしょうか。
多くの人々にとって、何よりも人生の道に暗い影を投げかけるものは、全ての妨害や不運と言います。迷い、疑問に思いつつ歩む日々、正当に評価されず、不当に扱われる毎日、これもまた本当に辛いものであります。
疑問に思いつつ、このようなことに耐えなければならないのでしょうか。なぜ私の人生は不運に巻き込まれるのでしょうか、と思う時もあります。
神様は言われました。「主を恐れることを知っている」あなたは、徐々に、年月を過ぎ去るにつれて、」数多くの「なぜ」に答えを得られたことを知るのであると言い、「不幸な日々が、多くの最善であったこと。もっとも祝福された平和を、神によって良くしてくださったことを、喜びとして見い出す時は、あなたが神の家の奥まった家に進んでいた時であることを」。「不幸な時のゆえに神に感謝することができた時に」。
そこに「主は愛する者を懲らしめられる」。そして「へりくだって主の懲らしめを受ける者は、神の御心に近く引き寄せられていること」を信仰者として悟ることが信仰の喜びと言えるからです。
「何時も喜んでいなさい。感謝しなさい」というみ言葉の意味はここにあるからです。
今月のことば
すると園丁は答えて言った、「ご主人様、今年も、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください」。
~ルカ13:8~9~
今年も、「つのぶえジャーナル」をよろしくお願い申し上げます。昨年は多くの方々に、祈り寄付金で支えられて2019年を迎えることができましたことは、神様のお許しと感謝しております。また多くの方々からお便りもいただきました。その一部ですが、「眸」や「ほっとひととき『みんなのコーナー』で紹介させていただきました。この小さな「祈りの輪、交わりの輪」が巣立ち広がっていくことを願いつつ、今年も励んでまいります。どうよろしくお願い申し上げます。
皆様の上に神様の豊かなお守りと祝福が豊かに与えられますように、お祈り申し上げます。 編集子
私たちは新年の曙の中に立っています。今年はどのような年になるだろうかと誰しも考えます。キリスト者として心へりくだって、過ぎ去った年月をふり返るとき、神様の愛と恵みが、私たちの命と生活の中に豊かに織り込まれていたかを知らされます。そして心の底から、「主よ、あなたはすべてこのとを良くしてくださいました」との告白が湧いてまいります。
けれども、そのような感謝をささげると同時に、早くも吐いて出る溜息があります。現実は困難が待ち構えていることも事実です。それでもなお、今あるこの日まで、最悪の事態を超える道を備え、防いでくださった「一人の人」が立っておられました。正義の手で斧を打ち下ろされるお方でした。それが「キリスト」(救い主)でした。
園丁は申しました。「来年までそのままに置いてください」と。この園丁の言葉によって、多くの人々が救われるための年月をご主人(神様)に下さるように願い出てくださいました。
この2019年という「この年」を本当に大切にし、信仰と生活の目標にいたしましょう。
讃美歌410番
1 鳴れかし鐘の音、雲とび霜おく
み空をわたりて、ゆく年送れや
なれかし鐘のね 雪ふる野をこえ
古きを送りて 新年(にいどし)をむかえよ。
2 鳴れかし鐘の音、憂いを追いやり
恨みをうちすて 和(やわ)らぎ迎えよ。
なれかし鐘のね 誇りを忘れて
まことの愛をば よろこび迎えよ。
3 鳴れかし鐘の音、 欲をばしりぞけ
平和の千歳を 今しも迎えよ。
なれかし鐘のね 暗きをはらいて
ゆたけき心に わが主を迎えよ。 アーメン
今月のことば
そしてことばは肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみと、まこととに満ちていた。
~ヨハネ1:14~
全世界にいるキリスト者は、このみ言葉に、あるひとり子を救い主と信じ、その誕生をお祝いしてきましたし、これからも希望の光として、輝き続けるでしょう。
さて、主イエスを知ることへと導かれた人の中で、このヨハネほどイエス様を深く知りえた人は他にいないことでしょう。そのヨハネの信仰の告白ともいうべき証しが、このみ言葉の中に示されています。
ヨハネは言います。ひとり子(キリスト)とその栄光を僅か20数語で私たちに示しました。「父のひとり子としての栄光であって、めぐみと、まこととに満ちていた」と。
ヨハネが神様の栄光を見出すより以前に、たまたま、この神様のご栄光に与った人々がありましたが、それは焼き尽くす火の中においてでした。しかし、神様の栄光はイエス・キリストの中において、私たちに出会われる時には、恵みとまことに満ちている時です。
キリストを離れては、近づき難い神様です。信仰の人モーセは神様に申しました。「どうぞ、あなたの栄光をわたしにお示しください」。しかし主は「あなたはわたしの顔を見ることはできない」と言われました。
この恵みとまこととは、わたしたちが神と共なる命を得るために、キリストから離れては絶対に得ることはできないのです。この事実は、誰もが認めなければならない事実です。
「だれでも真理につく者は、私の声に耳を傾ける」とイエス様は言われます。この事実を、このイエス・キリストの誕生で知る大切な時であり、全世界の人々に示されたメッセージなのです。
今月のことば
しかし、神に近くあることはわたしによいことである。
わたしは主なる神をわが避け所として、あなたのもろもろのみわざを宣べ伝えるであろう。
~詩篇73:28~
人間の心の中には、いくつかの特徴があると言われています。その一つに、神に近づくことを恐れることです。何事でも、神と顔を合わせることは、心の中に何か後ろめたさと、不安と、重苦しい思いを作り出すからだそうです。それは、都合の悪い私たちにとって、自由で幸福であるためには、神が遠くの存在であってほしいという思いの表れです。
しかし、身勝手にも人は悩みや大きな出来事に遭遇するとき、初めて神の存在に心を馳せ、神が助けてくれるために近づくことを望みます。しかし、危険が去ると同時に、神の存在から心が離れてしまいます。このような私たちの奇妙さにありつつも、死後は神と仲良くやっていけるという妄想に生きています。そのような奇妙な偽りの妄想の中に、多くの人は生き、死んでいくのです。
神様から信仰が与えられ、歩むキリスト者には、今、現実に生かされている今の中に、神に近づき、共に歩ませてくださいという深い思い、願望があります。それは、神のみ言葉を通し、祈りにおいて、他のキリスト者との交わりにおいて、「神と共に」という思いに導かれ、感謝する特権を持つようにされているからです。この事実に勝る喜びはありません。
このもっとも素晴らしい思いは、キリストの十字架の意味を知り、信じ、受け入れることを決心するキリスト者に与えられる、恩寵です。このキリストを救い主として信じ生きる歩みこそ、唯一の「避け所」「真の避け所」となってくださるのです。
「けれどもわたしはつねにあなたとともにあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。
あなたはさとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる」。 (詩篇73:23~24)
今月のことば
わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。
~Ⅱテモテ4:7~
パウロは一生の旅の終点に立っておりました。彼は疲れ果てるまで日毎に労し、多くの困難な戦いを経てきました。そうして今、戦いの終わりも日の暮れるにつれて見えてきました。このような確かさ、このような平穏な、信仰の勝利をもって、生涯の終点に立つ特権を得ることは、素晴らしいことです。それはちょうど、上なる空は、明るい金色の雲に覆われている大空の夕陽を見るようだ、と詩人は詠っています。
パウロが最も喜ばしく感じていたことは、生涯の戦いを通じて信仰を守り通したことでありましょう。これは、彼が信仰に「よって」戦わなければならなかったものばかりでなく、信仰の「ために」戦わなければならなかった者の一人でもあったことを知らされたことです。この戦いをしてきた者は、すべての戦いの中で、これが最も困難なものであることを知っています。
神への信仰、キリストへの信仰、天国と死後の命に至る信仰が崩れ始めると、すべては夜の闇となり、逃れる道が見えなくなります。しかし、信仰者はこの道を通らなければならないのです。「わたしが命である」と言われたイエス・キリストへの道です。
しかし、これを安全に、安らかに通り抜けるとは、なんと驚くべきことでしょう。もはや、弱った足がわたしたちを運ぶことができなくなっても、目が真昼の中に暗闇を見つめる時、平和な国、温かい家庭・家族との憩いの時と、そうして永遠の日を見る信仰を持つことは、言い尽くせない大いなることです。
大切なことがあります。それが長い短いという生涯ではなく、自分の旅路の終わりを知り、「喜ぶ」ことのできる信仰が与えられ、持っている今であることを知っていることです。
わたしたちの唯一の拠り所を知り、そこに生き、それを証しすることに尽きることを、パウロは語っています。
「今月のことば」
神がわたしたちをとおして勧めをなさるのだから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代わって願う、神の和解を受けなさい。
~Ⅱコリント5:20~
日本人の感覚で理解できないものの一つに「救われる」という宗教としての考え方であると、ある宗教家の著書の中にありました。それは罪に対する意識・認識の相違とありました。罪は犯罪という理解と対神という宗教的理解・神への背信・敵対であるとする聖書の主張にあります。大切なことです。「今月のことば」で、聖書はそれを示す。この真理をご一緒に考えてみましょう。
まず、キリストの救いを得るには、用意されているキリストによる救いが、私たちに伝授されなければなりません。私たちの外側に、用意された救いがあるということだけで十分ではありません。私たちはそれを自分のものとして受け入れなければなりません。キリストの御業、恵みは、私たちの救いのためには十分であるというのは確かであっても、私たちはキリストの死によって、神と和解した者とされる必要があります。しかし、和解を許されるためには、私たちは、まず、自分自身を和解されるようにしなければなりません。それは、私たちがキリストのみ元に行き、主によって用意された救いを受けなければならない、ということです。
もし、それをしたくないならば、決して救われません。ですから、神様はみ言葉を送り、証し人を送って、キリストに立ち返ることを強く言われるのです。
主イエスは私たちの負債(罪)と咎の証文を取り、主ご自身の血で、「支払い済」の印を、神の聖所で押してくださいました。同時に、私たち自身の心の中に「支払済」(罪赦された者)と主イエスに書いていただかなければなりません。そして信仰によって私たちの心を主に潔めていただかねばなりません。
失われた私たち罪人としてキリストに行かず、キリストの死には自分の罪の責任があると認めない者、また、信仰によって心をキリストに開かない者は、裁きを免れることはないことを事実として知らされています。
私たちは、自分自身が救われるか、失われるかを決断しなければなりません。この決断は「今」なのです。
今月のことば
「さあ、かわいている者は、みな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。」
~イザヤ55:1~
今回の西日本豪雨で大雨と川の氾濫、土砂崩れで、多くの被害と人命が失われました。心から、お悔みとお慰めが与えられますようにお祈りいたします。多くの方が「ジャーナル友」として、今のお気持ちをお届けくださいました。このような心の交わりが、この「つのぶえジャーナル」を介して与えられていることを痛感いたしました。その使命を神様からの「召し」と信じ、励んでまいります。どうぞ、『ほっとひととき「みんなのコーナー」』をご覧くださり、祈りに覚えていただければと思います。
人の思いと心とは本当に不思議に思えます。私たちの心の中にある、なやましい不安と、深い心の慟哭を、神様は「飢えと渇き」と呼んでいます。人々にお金や名誉や、権力や快楽を追わしめるものは、この魂の飢えであり、その多くの者が放蕩や恥辱に走るのも、これに由来するといえるでしょう。
人はこの地上の富をもう少し持っていさいすれば、また、情熱の命ずるままに生きることができたならば、幸いであろうと考える者も多いのです。この間違った人間の価値観、人生観は、私たちの内に深く根を下ろしていて、誘惑する悪魔(サタン)方は、実に多くの人々を永久の不幸へと追いやることが出来ます。
神様は、この私たちの絶望的な道に行くのを見たもう時、心から憐れみをもって私たちを呼び、「帰って来い」と言われるのです。神様には、満腹させる食物があります。渇きを止める飲み物もあります。そしてそれを、「ただでもらえる」と言われます。この招きには誰もが与れるのです。しかし、この招きに来ないのです。
この「今月のことば」の1節に書かれているのは、全てただで頂けるにも関わらず、私たちは買わなければならないというのです。無価値なものを買わなければならないとは、納得しかねます。無料、無代には疑いを持ちます。しかし、ここでは、「無料、無代」ではないのです。それは「来る」という値を払わなければなりません。特に信じられない、「ただであるというものを受け入れる」という値段があるのです。そうして、それを神様からの愛と憐み、恵みであると信じて受け入れる思い(信仰)を言い表す(告白)ことです。
信仰とは、神様がお与えくださるお約束を信じ、より確かなものとするために生きる、生き方そのものです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」