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今月のことば
主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。
~詩篇32:2~
聖書の言葉の表現に、時々戸惑うことがあります。この「その霊に偽りのない人」もその一つでしょうか。では、その人とは具体的にどういう意味があるのでしょうか。少なくとも、私たちが単純であるのを止めてしまったとき。ただ一つの目標だけに目を注がず、ただ一つの可能性だけを見ないとき。私たちの心が神様と富とに分裂するとき。キリストがもはや私たちの唯一の贖い主・救い主でなくなったとき。そのようなときに、私たちの霊は「偽り」ある者となっていると言うのです。
不義・不信・猜疑・混乱と敬虔・純粋には大きな違いがあります。私たちの働く知的作業は、計算したり評価したり、駆け引きしたりであるとき、「不義を負わされ」ているのではないでしょうか。
さて、単純なものがあります。それは、「神の愛と恵み」です。「キリストの十字架の救い」です。そこには曖昧さや「ぼかし」はないのです。この単純な救いの提供に、疑いの対応をする私たちは、どうしてなのでしょうか。それは、私たちの思いを、あまりにも超えた恵みの約束だからです。その未熟で疑い深い私たちに必要なものは、「聖霊なる神の助けと導き」です。神の側には救いがある。私たちの側には罪と滅びがある。神の側には光と命がある。私たちの側には滅びと闇だけです。
今月のことば
もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。
~マタイ6:14~15~
この聖書のみ言葉は多くの人が知っている言葉と言えます。世の中に、このみ言葉が、個人レベルだけでなく、国と国の関係に適用出来たら・・・と思うのです。「愛し、受け入れ、赦し、赦される」社会の一人として、このみ言葉を大切にするなら、どんな社会が生まれるでしょうか。夢物語と言われても、祈り願い求めませんか。
神の愛と慈しみは、一人ひとりに当時も後の歴史の人類にも示し、与え続けています。罪と放蕩に明け暮れた私たちに、悔い改めを求め、常に扉を開いています。何か特別な心構えと身支度をしてではなく、ありのままの姿で来なさい、と招いておられるのです。人は疑い深いものです。無条件ほど疑うのです。裏に何かあるのではないかと不安になるのです。むしろ、ある基準、ハードルが示されることで安心し、励むのです。
でもここにも条件があります。全くの無条件ではありません。それは神様への「悔い改めの心と赦された者とされたことを知って、感謝の心をもって、赦されている喜びで、赦す愛と信仰に生きる」ことです。
人を尊敬し、愛する心に変えられるなら、こんなうれしいことはないのではないでしょうか。
「キリストによって」
むなしく生きる私たちの所に こられたキリストによって
父なる御神の招きを受けて 父なる御神のもとへ帰れよ
悪に苦しむ私たちの所に こられたキリストによって
父なる御神の正義を知りて 父なる御神の腕に頼れよ
父なる御神の恵みに触れて 父なる御神の安らぎを得よ
水野源三 信仰詩集
今月のことば
「見よ、あなたはわたしの日をつかのまとされました。わたしの一生はあなたの前では無にひとしいのです。まことに、すべての人はその盛んな時でも息にすぎません」。
~詩篇39:5~
神様は、すべての者に等しく、24時間をお与えになっています。しかし、「あなたの前で」というこの言葉は、とても大切です。「あなたの前で」あれば、私たちの日々は、美しい。そして私たちの日々が美しくない場合には、それは一層長いのです。しかし、「あなたの前で」は、そうではありません。神様のみ前では、70歳が何でしょうか。さらに進んで80歳が何でしょうか。また「あなたの前で」あれば、私たちの生は、決して無ではないのです。たとえば、喜びと悲しみに満ち、影と光に満ち、富と貧しさに満ちている人生・・・。しかしそのような人生も、「あなたの前で」は、束の間の時間であり、泡であり、煙であり、朝開いて夕にはしぼむ花です。
一週、一週は過ぎ去り、私たちの年々歳々は過ぎ去るものです。40歳となり、50歳は目前も事実です。天地でさえも、「あなたの前で」は過ぎゆき、地は「あなたの前で」は塵となるのです。
しかし、神のみ前では過ぎ行かないものがあります。それは。「わたしの言葉は滅びることがない」(マタイ24:35)のです。神の言葉は単なる言葉ではありません。それは神の約束そのものだからです。
今月も、私たち一人ひとり、神が私に何を約束していられるか問うことに、目を凝らすなら、私たちは「あなたの前で」聖書が示す神の愛、私たち一人ひとりに注ぐ神の眼差しを知るのです。
「神の前に生きる」人生は、永遠に滅びを知らないということなのであります。
「そうではない」
歩むのは私ひとり そうではない そうではない
私の弱さを知っておられる 主イエスが共に歩みたもう
悩むのは私ひとり そうではない そうではない
私の弱さを知っておられる 主イエスが共に悩みたもう
祈るのは私ひとり そうではない そうではない
私の願いを知っておられる 主イエスが共に祈りたもう
=水野源三第4詩集=
今月のことば
「何事についても、敵対する者どもにろうばいさせられないでいる様子を、聞かせてほしい」。
~ピリピ1:28~
見せかけの華やかさや、誇張された演出には驚くのですが、それが繰り返されることで、その感覚・意識が変化することに驚くことがあります。時々、テレビに映し出される軍事パレードを見て何と、これが平和維持に必要な軍隊であるかのように思う心があります。しかし、それは確実に殺戮兵器であり、集団であることです。そこで起こる事実は「命の軽視」でもあります。
冷徹なほど計算され、陶酔をもたらす演出であることを見抜く力を持たなければならないと思えます。サタンはイエス様にさえ試みるのですから・・・。
使徒パウロは言います。明らかに、キリストの教会には「敵対する者」がいるだけでなく、それが強大な者であることも知っています。だから、ここに「ろうばいさせられないでいる」ことを求めています。「敵対する者・逆らう者」は「命から死」を求めるのです。救い主イエスに「十字架に架けろ」と叫んだ民衆、真実を語ったステパノへの怒りの石の嵐の処刑は「命の軽視と真実への反抗」でした。死を求めて叫ぶ民衆は、堅忍不抜の英雄ではなく、まして怖いもの知らずの者ではないのです。むしろ弱い羊であり、臆病な者たちかも知れません。
キリスト者ははるかに臆病で、死を恐れる者かもしれません。争いに怯え、無力さを知る信仰こそ、キリスト者の強さであるとするなら、なんと幸いなことでしょう。
神の言葉は希望になり、聖霊は、真理を守る勇気をくださいます。「敵対する者に対して」、祈りが、真に人を変え平和をもたらす力なのです。
「ろうばいさせられないでいる様子を、聞かせてほしい」と神は私たちに求めています。「聖霊に信頼する者の信仰者の群れ」には、弱そうに見えても強い、不思議な抵抗する何かが与えられているのです。それは、神以外のものに信頼しない信仰の心なのです。
今月のことば
「・・・・。愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、兄弟の愛をもって互いにいつくしみ、進んで互いに尊敬し合いなさい。・・・。望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。・・・。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」。
~ローマ12章9~15節~
「患難」と言う言葉は、何と重く暗い心にさせることでしょう。福音書には「戦争と戦争のうわさを聞くであろう。・・・民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起こり、また地震があるであろう」(マタイ24:7~8)と記されています。これは、すべての国民に例外なく起きる患難です。多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合い、不法がはびこり、霊的・精神的な不安定な出来事は、不透明さとなり、多くの人の愛が冷えると警告しています。
光を失い、霧のようなものに覆われ、虚偽が好機をとらえ、どさくさ紛れに利益を得ようとする者が成功するなら、もう暗闇に迷い込み、誰も光の道を見分けることが出来ないとするなら、何と言う「患難」でしょう。理性と知性よりも、「××ファースト」が、真しやかに囁かれ、それが当り前になりつつあることに、怖い感じがします。「第一主義」よりも耳には心地よい響きです。
私たちは、実はよちよち歩いているのです。だからこそ、敢えて、よちよち歩きの時間、待つ時間、耐える時間が必要なのです。
使徒パウロは私たちに語り掛けています。「患難に耐え・・・」と言った、あの耐える時間は、静かな誠実の時間、あのローマ書のみ言葉に向き合う時間なのです。信じて祈りつつ、神の約束に固執する時間なのです。
「最後まで耐え忍ぶ者」(マタイ10:22)、その人は神の救いに与るのです。
今月のことば
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためなのである。いつも感謝しなさい。
~コロサイ3:15~
新しい2017年も1ケ月が過ぎました。この月は、若い人にとって一番落ち着かない不安定な時でありましょう。進学、国家試験、進級、あるいは就職先の決まっていない人もいるかもしれません。これは、若者に限ったことではありません。
人の心に傲慢と偏見、猜疑心が芽生える時、私たちを嫌な心にいざないます。それは「利己的」です。いつも何かを要求し、不平を言います。しかし、「謙遜な信頼の心」を持つ人は、未来に「感謝する道」を見出します。
「不平を言う心」は、勇気を失い、何事に対しても意欲を失い、「喜び」を失います。人は人生を自分にとっても、自分とともに住む人にとっても重荷となるとしたら、とても辛いものです。家族でも、社会や組織でも、その中に「不平や不満」が産まれることは容易なことです。しかし、「思いやりと親切な気持ち」が産まれると、不思議にも、「感謝」の思いが育ちます。
この道は、誰の前にも示されている神の愛と力、恵みに至る道、幸いな道です。私たちの日々の生活の中で、家族や友人に「ありがとう」と言う言葉はどれだけ幸いを分かち合うことでしょう。
不平を言い、要求する代わりに、感謝することを第一にするならば、私たちの生活も、あるいは生涯を変えるでしょう。
愛する者と別れる時、最も心強くする言葉は「ありがとう」であるなら、素晴らしいことです。
人の発する言葉の怖さを、世界は感じています。しかし、イエスは言います。「あなたの隣人を愛しなさい」と。
今月のことば
「新しい歌を主に向かって歌え、全地よ喜び祝い、喜び踊れ」
~詩篇~
2016年が終わり新しい2017年を迎えます。広場の片隅には風に吹かれてこんもりとした枯葉の山。幾重にも重なった枯葉の布団に包まれた虫たちの姿。人はそれを冬眠と言うがそうではない。秋に蓄えて生きる力、訪れる次の季節のいのちの備えの営みの姿がある。
大きく伸びた街路樹は、きれいな形に切りそろえられ、木枯らしの中に立っている。ふと、幼い時、近所の人との使い回しのバリカンでかられた頭の残り毛を思い出した。時間がたったら分からないよの一言で、母は、ハイおしまいとポンと虎狩頭を叩く。街路樹の残された木にも数多くの小枝がある。切り忘れでないのは、どの木にも小枝がある。春に備えた庭師さんからの、いたわりと気遣いの贈り物。
2017年も、そのような人の思いが、そこここに満ちている。生きる喜び、生きている喜びが待っている。
「冬こもり 春さり来れば あしひきの山にも野にも鶯鳴くも」(万葉の歌)。
人は過ぎ去った一年に、何を思うだろうか。辛く死んだような日だろうか。空虚な日もあったことだろう。しかし、それは終わりである。
「恐れるな。わたしは初めであり、終わりであり、また、生きている者である」(黙示録1:17,18)。
一日でも一時間でも祝福があるなら、喜びのはじめ、踊りのはじめ・・・。終わった日を数えるのではなく、迎えうる新しい日を数えたい。
今月のことば
「主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし」。
~ルカ1:51~
飼葉おけの中には、一人の幼子が横たわっています。それが後に、人を「倒れさせたり立ち上がらせたりするために、定められている」人であり、この方のゆえに倒れ、この方のゆえに死ぬということも起こり得るのです。
クリスマスを迎えます。しかしもしかすると、私たちの中の多くの人々にとっては、クリスマスなど無縁の人、無くてもよいと思う人、その祝福など知らずに祝いもしない人もいるでしょう。
クリスマスは、子供らしい事柄や無邪気な出来事ではないのです。祝福の時であり、審きを招く時でもあるのです。
この飼葉おけの幼子は、私たちに対して光と希望と永遠の命をもたらす幼子でありますが、その光と希望と永遠の命を受け入れない者には、闇と滅びに留まることになるのです。
幼子の産声は、後の救いの呼びかけを告げ知らせるものであります。その呼びかけの声を聞こうとしない者、心の扉を閉ざす者は、棄却の中に沈むのです。しかしこの幼子(キリスト)の招きを受け入れる者は、キリストが所有者となり、救い主キリストと一つとされるのです。また人は、洗礼を受けキリストに属する者たちでありながら、今もキリストを十分に受け入れない人もいるのです。
聖書の中には、神の御業に戸惑い、迷い、悩む人の姿が描かれています。高齢のアブラハムと不妊の妻サラの懐妊(創世記18章)、そうして、イエスの母マリヤと夫ヨセフの姿は、それを物語っています(ルカ1:1~2:35)。
しかし、人の思いを越えた神の御業に、驚き怪しむ心を、御霊の働きによってその思いを喜びに変えるのです。
暗闇を覆うこの世界に、光をもたらす祝福が、あの飼葉おけの幼子なのです。
<讃美歌109番>
1 きよしこのよる 星はひかり、
すくいのみ子は まぶねの中に
ねむりたもう いとやすく。
2 きよしこのよる み告げうけし
まきびとたちは み子の御前に
ぬかずきぬ、 かしこみて
3 きよしこのよる み子の笑みに、
めぐみのみ代の あしたのひかり
かがやけり ほがらかに。 アーメン
今月のことば
わたしはシオンの糧食を豊かに祝福し、食物をもってその貧しい者を飽きたらせる。
~詩編132:15~
世界の貧困が深刻であると叫ばれ続けている。ほんの少数のものに富が集中しているとも言われる。数字の上ではその通りである。貧しい人はある限られた地域や人々のことなのだろうか。身近に目を向けるなら、そこに支援を求めている人がいる。
人は、生来、利己主義で心汚れた者と言われているが、本当にそうだろうか。
暖かい心を持ち細やかな思いも持っている。大多数の人は善意に満ち、優しいと思う。事実、不正や犯罪も起こる。不正な行為で得た富に喜びがあるだろうか。富に富を求める貪欲がその人を虜にするなら、富は不幸の象徴になるのではないだろうか。利己主義の恐ろしさは、自分の権益擁護のために、打算に夢中になり、喜びとは無縁の中に陥ることであるなら、虚しいと気づきたい。
神は、「わたしはシオンの糧食を豊かに祝福し、食物をもってその貧しい者を飽きたらせる」と言われる。このみ言葉は不思議である。神が私たちの所得を―私たちの「糧食」を祝福される場合には、それは私たちの持っている器からあふれ出すほどの仕方で起こる―という。
私たちはささやかな恵みで十分であると思う。もし溢れるほどなら、隣の人と分かち合い、喜びを共にして、一日を感謝できる。「お茶飲み友達」のお茶は、高価なものではない。共に語り、笑う時こそ恵みである。高価なコーヒーを孤独の中で一人飲むより、美味しい。
神がお与え下さる溢れる恵みをいただくために、私たちの利己主義・権力欲という器は小さく、分かち合い、ともに喜ぶ心の器を広げ、神からの祝福をいただこうではないか。
「分かち合う喜び」は「神を愛し、隣り人を愛する」信仰の証だから・・・。
今月のことば
御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。
~Ⅰヨハネ5:12~
聖書の言葉は欧米の文化や文学や絵画や芸術に影響を与えて言いますから、自然に覚えている人は多いように思います。「狭き門」「人はパンのみに生きるのではない」とか、「隣人を愛しなさい」などもあります。ある時期には、聖書を題材にした映画も沢山配信されました。「十戒」「聖衣」「サムソンとデリラ」などなど・・・。
しかし、この「御子」と言う言葉の持つ意味は特別なものがあります。初めて教会に行かれた時の戸惑いは、よく覚えていると言います。讃美歌や祈祷などではなく、殆ど初めての言葉や言い回しに「異」を感じたと言うのです。
お話の中に「罪」「罪人(つみびと)」「いのち」「救い」「贖い」と言う言葉が何度となく出て来て、違和感さえ覚えたという人もいます。
この「御子を持つ者」もその一つでしょう。しかし、この言葉と意味を知ることが、キリスト教信仰そのものなのです。
人の声を聞くことは大切です。他者の声を聞かぬ者は、本物の声を聞かぬ者とするなら、ことは重大です。「羊飼い」は、その語られた言葉に耳を傾け、確かめに行きました。そうして出会ったのが幼子イエス(御子)でした。呼び掛けに聞き、確かめに行き、見たのです。
聖書のみ言葉に戸惑い、それに疑問と好奇心を持ち聖書を読む人もおられるでしょう。しかし、そこに待つのは「御子を持つ者の幸い」です。聖書を読む者。それは「神の御言葉が命の養いとなる喜びを知る者」でもあり、それはちょうど、命を保つためにパンを食べるように読むことに等しいのです。また、キリストの群れに加わる者にされることでもあります。それが「いのちを持つ」と言うことなのです。
「私は神の御子を持っている。それゆえに私も生きる」と言うことが許される自分にされる。この魂の感動は何にも代えがたいものです。自分が生と死において神の御子に属していることを知り、そのことを信仰として確かなものにされていることは、なんと幸いなことでしょう。
「隣人を愛しなさい」というみ言葉には、次のようなイエス様と律法学者のやり取りがあります。イエスを試みようとして「先生、何をしたら永遠の生命を受けられるでしょうか」。とのお答えとして、『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります(ルカ10:27)。
大切なことはその後のイエス様の、隣り人とは、誰のことですですかに対するお答えです。とても大切なことが教えられております。是非、聖書をお開きになり、お確かめください。
今月のことば
彼はその魂が労したゆえに、喜びを見、満ち足りる。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とする。それは彼が彼らの不義を負うからである。
~イザヤ53:11~
連日の猛暑日も9月の声とともに秋の虫たちの声が夜風とともに心地よい響きとなって聞こえてきます。夏の疲れが神様のお癒しをいただいてお元気にお過ごしください。
私たちの生活は、絶え間のない活動で成り立っています。そのために、多くの人が働いて、それで保もたれております。電気、ガス、水道から公私の交通機関、外国に漁に出ている方もおられます。国と国との争いのないように、その任に当たっている人もおります。また、24時間営業が普通になりました。そうして、そこで働いている方もおられます。このように多くの人の働きによって、多くの人は安心して生活しております。しかし、現実には、過重労働のために多くの弊害も起こっています。
ところで、聖書によれば、そのように目に見える「地」だけでなくて、さらにその上に目に見えない「天」も私たちのために働いている。天において私たち人間のために働いている「先々、万々」の者(ダニエル7:10)に比べれば…と、ふと思わされます。預言者イザヤは「その魂が労した」と言っている「一人の人」のおられる方を、私たちはどれほど考え、思い巡らしているでしょうか。
私たちは生きていますが、それは「彼はその魂が労したゆえに」生き、生かされていることを、深く考えることは、生きる意味・目的を自覚する上で、大きな意味を持ちます。「神の愛に満ちた魂の労」に深い感動と感謝を覚えるのです。同時に、人々の労に心を向け、感謝の思いをこの実りの秋に思いたいものです。
ふと、普段着の生活に安堵の思いを覚える幸いは、明日への希望になるのではないでしょうか。そう思えることに感謝・・・。
今月のことば
さまざまな違った教えによって、迷わされてはならない。
~へブル13:9~
思想・信教の自由は保障され、尊重されなければならない権利です。しかし、その尊い権利の衝突で争いが起きてきたのが人類史と言えるでしょう。新しい思想は、人を引き付ける魅力、魔力を持っています。
私たちの社会は、流行という魅力、魔力で動いているかのようです。新しい商品、奇抜な発言、常識という枠を超えたものに、心惹かれるところがあります。時代の潮流という力もあります。そのような中にある私たちは「間違った教え」か「真理か」の判断を求められています。
私たちの教会生活も、流行の精神や人々の潮流に屈しているところがあります。「その時代の常識」という言葉は、時に判断を迷わします。「さまざまな違った教えによって、迷わされてはならない。」との警告を謙虚に受け止めなければなりません。「あなたがたは、ゆらぐことなく、しっかりと信仰にふみとどまり、すでに聞いている福音の望みから移り行くことのないようにすべきである」(コロサイ1:23)と警告されています。
キリスト教会は保守的で、変化に乏しい。もっと時代の先取り、社会のオピニオンリーダーであるべき使命を帯びていることを自覚し、自己変革すべきであるとも言われます。しかし、キリスト教会が保守的とみなされる時、古ぼけた形式に固執しているからではなく、むしろ古くならず、変わることなきものに―すなわち、永遠の財産に固執するのです。形式という点では、キリスト教会は、どれほど近代的でも、時代と世界と共に歩んでも不変のものがあります。教会は「使徒信条」に固執します。イエスが救い主であることに固執するのです。すなわち、不動です。
教会は祝福された頑固さを、喜びの使信として告白し続ける時、その真理のゆえに「地の塩、世の光」として、独善に陥ることなく謙虚に世に奉仕する使命があります。これは、キリスト者一人一人の使命でもあります。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」