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今月のことば
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」。
=マタイ11:28=
「肩代わり」という言葉あります。この一言で心うれしくなることがあります。何か肩の荷が軽くなった気持ちにさせる言葉です。しかし、現実の重荷はそのままであることも事実でしょう。病める人に慰めと励ましの言葉を掛けることは難しいものがあります。ふと身に負う病い人に無責任な一言になるのではないかと躊躇するのです。
現実に病いを癒し、重荷を取り除くことなど出来ないという事実もあるからです。病み人をちょっと見舞って、その後、健康な自分に戻り、病み人は、病床で過ごすのです。
聖書の、このみ言葉は、ただ「休ませてあげよう」という人の言葉として記されているのではありません。救い主の言葉として、お出来になる方の約束としての言葉であることに感謝するのです。
救い主が「休ませてくださる」というのです。救い主が、重荷を負う者たちに、最も深いところの苦しみ、重荷を取り去り休みを与えるというのです。人の肩代わりではありません。主イエスの救い主としての約束です。その約束こそ「十字架の約束」です。主イエスの担われた私たちの重荷は、ご自身の死を持って償うほどのものでした。そのみ業をなすために、天から来て、地上の重荷を身の負うお方としての休みのお約束・お言葉です。
主イエスが身に負われなかった様な労苦は、地上には存在しないのです。だからこそ「すべて」なのです。主イエスには不可能はありません。全能者は全能者なる主イエス・キリストご自身以外に誰もいないからです。共に病いを負い、悲しみを担い、歩んでくださる主と共にある幸いを覚える日々でありたいものです。
<讃美歌358番>
1 こころみの世にあれど、
みちびきのひかりなる
主をあおぎ、雨の世も
たからかにほめうたわん。
4 世のちからせまれども
死に勝ちし主によれば
やすらけきよろこびは
わがむねにみちあふる。 アーメン
今月のことば
主に愛される者、彼は安らかに主のそばにおり、主は終日、彼を守り、その肩の間にすまいを営まれるであろう。
=申命記33:12=
私たちは生活の必要度を考えてみる時、衣食住の内、まとまったお金で購入するものに「家・住まい」があります。「生活しやすい住まい」「健康的な住まい」「格安な住まい」、そして、最近は「環境」が重要な要素になりました。当然のことですが、そこに生活の基を置き、何十年も住み続けるうちに、年齢や家族構成の変化で、使用期限が変わります。
年齢と共に求めるものにも変化が見えます。安心・安全と共に医療機関が新たに加わる項目です。それは、「安らかな住まい」と言えることでもあります。身の安全のために安全錠に守られ、安全保障会社に守られて得るものではないと知ることは、とても大切なことでしょう。
核戦争のために「地下壕」を考えても、「安らぎ」を得ることは不可能です。それは、不安の中にいて我慢する「地下壕」です。
しかし、もし「安らぎ」があるとするならば、それは「地下壕」にではなく、神のもとにしかないとするか、信仰で解決するなんて・・・と思うかを、また、一度、「主に愛される者」について、考えてみたいと思えたら、未来に大きな違いがあることを知ります。それは「主に愛される」「安らかに主のそばにおり」と言う、「安らぎ」です。
連載されている「あなたに聖書を」の事柄は「放蕩息子」の喩えと言われているものです。また、「失楽園」という旧約聖書の出来事は、「安らかな住まい」を失っている姿です。このどちらも、「永遠の住まいにすむ居住権」「を失った「不安・不安定・絶望」です。
失ったものを取り戻そうと、人はあわててしまうために、本当のものを見失い、もっと多くのものを失うのです。「取り戻す」のではないのです。「主に愛される者に新にされ」、「与えられることを待ち望む者」されることです。神の国の「永遠の居住権」を頂く者に変えられる時、「主に愛される者」が、「安らかに住まう」住人になるのです。これこそが「福音」です。「福音に生きる幸い」は、イエス・キリストへの信仰にあるのです。
今月のことば
シオンの子らよ、あなたの神、主によって喜び楽しめ。
=ヨエル2:23=
この喜びには、様々なものが先立っています。それは、「怠け者の天国」での喜びのように、思いがけない姿でおとずれるものではありません。誰かが急にやってきて、主によって喜び楽しむと言うものでもありません。
「主の日が来て近づいた」ということを予め語りかけられていた、極めて特定の人々が、喜び楽しむことです。預言者ヨエルのこの章には、「暗く、薄暗い日、雲の群がるまっくらな日」(2:2)について語られています。そして、そのような日を告知した後で「あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」(2:13)と語られています。「断食を聖別し、聖会を招集せよ」(2:15)、「主に仕える祭司たちは、廊と祭壇との間で泣いて言え、「主よ、あなたの民をゆるしてください」と」(2:17)などの要求が発せられています。
そして、それらすべてのことが語られ遵守され、実行された後ではじめて、ちょうど嵐の後の夕暮れの地平に現れる銀色の筋のように、「あなたの神、主によって喜び楽しめ」という思いがけない使信が出現するのです。
汚染を清める嵐の後の大気が特別透き通っていて、鮮やかに展望が開けるように、この聖句が語っている「主によって」の喜びは、比類なき特別な喜びなのです。罪のゆえの悲しみが、最も深い悲しみであると同様に、神との和解を与えられた良心の喜びは、最も純粋な喜びであります。それは、神に愛された神の子にのみ与えられた特権・恩寵です。
しかし、神に愛された神の子、神の恩寵を味わった者でも、その不完全と弱さのゆえに、その恵みの味を忘れて、見える物に心誘われるのです。その弱さを知り、神のみこころに添う喜びを乞い慕う一日、一日でありたいものです。
今月のことば
「・・・。彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者との共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」。 =イザヤ53:12=
人は生を受け、そして、その生涯という言葉で死を迎えます。尊ばれ、惜しまれつつの死もあれば、災害や事故で死を迎える人もおられましょう。戦争や貧困が原因のものもあります。ある本の中に「母性とは、母親とは、新しい命を生み出すために、死という墓を越える生命力を持つ者・・・」とあるのを思い出しました。
一つの命を、一人の小さな命はそのように尊いと思う時、あの処女マリヤの
受胎告知の驚きとその命の持つ重みを知った時のマリヤの賛歌は、心打ちます。そうした命が、十字架の死を遂げる息子イエスを目の前にした、母親マリヤの悲しみは、どんなであったでしょうか。
ベツレヘムで生まれ、自らの手で育み成長した息子イエスは、マリヤの命を受け取った息子でした。
母マリヤの生死のかけた産みの戦いは、聖書には記されていません。しかし、それが、罪を贖う救い主の『罪の贖いの死』であることを、母親としてではなく、信仰者マリヤとして受け入れた時、彼女の悲しみは喜びへと変ったのでした。すべての人間の命を死から救う、唯一の命でもあります。人間には、キリストのような永遠の命を持ってはいませんので、キリストのような仕方で、自分の命を死に渡すことは出来ません。キリストなき死の先には、永遠の滅びあるのみです。
しかし、キリストが死に渡されたこの命だけは、イエスだけの命ではなかったのです。
死は、現実そして事実です。しかし、イエス・キリストは全く特異な死なのです。それは、私たち人間がどこにいようが、そのような人生であろうが、信仰者の受ける永遠の命を約束した死であり、命であり、よみがえりなのです。
今月のことば
肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安である。
=ローマ8:6=
この言葉は、私たちにとって、またこの言葉を読む人にとって、「いのち」と「死」についての問い掛けです。また私たちの思いが「肉の思い」であるか「霊の思い」であるかも含んでいます。それでは、私たちは「いのち」と「死」を、自分の手の中に持っていると思って生活しているでしょうか。むしろ、「肉の思い」の中にいるのが日々で、改めで「いのち」と「死」についての責任を持っているとしたら、事は重大です。
大切な節目があります。私たちが自分の心に「霊の思い」と「肉の思い」の前に立っていると気付くその時です。日々を省み、反省して得るものではない・・・とするなら、その節目を探そうではありませんか。
「霊の思い」は、まず第一に、様々の美しく立派な「あるいは美しいものに憧れ、心奪われる」性向において示されるのではなく、むしろ第一には、また本来は、単純に、私が自分自身を助けるのか、あるいは神の助けを必要としているか、と言う点に示されます。自分自身は強いか、あるいは神の力と支援を必要としているかを謙虚に思えるかの中に示されます。また、神が援助者・救い主をこの世に遣わされなかった場合に、自己救済に赴くか、あるいは絶望し、破滅した者になるかでもあります。
どうでしょうか。自分には自分を救いえないというのが「肉の自分」であると知る時、諦めるでしょうか。「われわれの造られたさま」(詩篇103:14)を知る機会がある時、見過ごしますか。「自分の理性や道徳性、意志の力や生来の持っている宗教的な性向に留まりますか」。「自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう」(ガラテヤ6:8)と聖書(パウロ)は語ります。
人は生きます。しかし、その行き先に何が待っているのでしょうか。「いのち?平安?」それとも「死?滅び・・・」。
「キリストにお会いしてから」
戸をたたく しめきっていた
部屋に入って来られた
キリストにお会いしてから
キリストにお会いしてから
その両手と 脇腹に
傷跡がいたいたしい
キリストにお会いしてから
私の心が 変った
信じない者に ならずに
信じなさいといわれた
キリストにお会いしてから
私の心が 変った
お会いしてから 水野源三
今月のことば
あなたの定めはわが旅の家で、わたしの歌となりました。
=詩篇119:34=
私たち一人一人は自分の歌を-自分独特の歌を持っています。日々の生活の中での歌です。しかし、考えてみるとその音色も言葉もそれ程多く持っていないことに気付きます。あの空の鳥たちの場合と殆ど同じかもしれません。
鳥たちも、自分の歌のひと節を歌い、同じ短い歌を飽きることなく繰り返しています。それと同じように、私たち一人一人の生活からの歌も、短いひと節が聞こえてきます。
ある人の歌は「作るー作るー作る」であり、別の人は「食べるー食べるー食べる」、また「嘆くー嘆くー嘆く」、あるいは「私ー私ー私」、あるいは「感謝ー感謝ー感謝」でしょう。
この119編の詩人も「あなたの定めーあなたの定めーあなたの定め」という歌です。きっとこの詩人の生活や日々は、この歌で満ちていたかのように想像してみました。私たちも、職場でも、玄関でも、台所でも、僕たちも、家族たちにも、この歌声が響いているのです。「わが旅で、わたしの歌となりました」と・・・。
詩人は、自分の人生を旅のように思っています。それは同時に、日々という旅でもあります。その旅は、地図の無い旅、目標を捜し求める旅ではありません。彼には「神の定め」がありました。さ迷い歩く流浪の旅人のような、迷い人の姿はありません。
きっと多くの苦難や困難、悩みや悲しみの旅であったでしょう。平坦な人生の旅などありません。信仰者の旅もまた同じです。しかし、そうであるがゆえに、この詩人の「定め」は、何よりの道しるべとなっています。「定め」は喜びであり慰めであります。無味乾燥な道徳というようなものではなくて、実際に「歌」なのです。福音となり、喜びの叫びとなっていたのです。
改めて、自問します。「日々、何と歌っているだろう・・・・」。
<527>
1 わがよろこび、わがのぞみ、
わがいのちのしゅよ、
ひるたたえ、よるうたいて、
なお足らぬをおもう。
2 したいまつるかいぬしよ
いずこの牧場(まきば)に、
その群を主はみちびき、
やしないたまえる。
今月のことば
御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。
=Ⅰヨハネ5:12=
「御子を持つ者」と、ここに極めて大まかな言い方がなされていますが、私たちは、御子を持ったり持たなかったりすることが出来るのでしょうこか。また、自分は御子を持っていないなどと言うことが出来るでしょうか。言い換えれば、誰が神の民であり、誰が神の民ではでないと判断できるでのしょうか。
その答えは、次の言葉で分かります。「羊飼いの声を聞いて」他の者の声を聞かない者。神に呼びかけられ、召し出される者。神のみ言葉を聞くために来て、そのもとに身と魂と霊をもって立つ者。端的に言えば、聖書を読む者。それを、ちょうど命を保つための糧・パンを食べるように読む者。神のみ言葉が命の養いとなっている者。
これが「御子を持つ」とすること。それに生きる者とも言うことが出来ます。
そうして、神を持つことを信じ、公に告白し、洗礼を受けた者。それを、単なる儀式・形式として軽んじない者。そのような人は、「御子を持つ者」と言えます。
また、信仰を告白し、主の教会の聖餐への招きに応じ、謙虚に加わる喜びを感謝する者。すなわち、「単純さと純粋さを持ってみ言葉と聖餐に与ることを喜びとする」者が、神の御子イエス・キリストに覚えられていること。
それを知て、とこしえの命へと力づけられ、保たれることに感謝をもって祈り求める日々でありたいと願うことです。それを今年も大切にし、「御子を持つ者」になっていただきたいと切にお祈りいたします。
<讃美歌332番>
1 主はいのちを あたえませり
主は血しおを ながしませり
その死によりて われは生きぬ
われ何をなして 主にむくいし。
2 主は御父の もとをはなれ
わびしき世に 住みたまえり。
かくもわがために さかえをすつ
われは主のために なにをすてし。
3 主はゆるしと いつくしみと
すくいをもて くだりませり
ゆたけきたまもの 身にぞあまる
ただ身とたまとを 献げまつらん。 アーメン
今月のことば
「主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし」
=ルカ1:51=
あのベツレヘムの飼葉おけの中の幼子は、神の御子が横たわっていました。その幼子は、人を「倒れさせたり立ち上がらせたりするために、定められている」(ルカ2:34)とあります。人はキリストのゆえに倒れ、キリストのゆえに死ぬということも起こり得ると、言われています。
クリスマス・・・・。もしかすると、私たちの中の多くの人々にとっては、クリスマスなどなくても、そのよう祝祭の意味など知らず、祝いもしない人もおられるでしょう。人がその意味を知っていても、知って破滅を招くことも起こりうるでしょうし、飲み食いして、裁きを招くことも起こりえます。クリスマスは、子供らしい事柄や無邪気な出来事どころではないのです。
そこでは、私たちに対して、光が提供されるが、その光を受け入れない者は、闇の中に留まるのです。また、救いが告げられるが、その呼びかけの声を聞こうともしない者は、廃棄の中に沈むのです。
キリストに対してそのみ声を聞くために心をキリストに向けることも出来れば、耳を塞ぎ、心を閉じることも出来ます。
キリストの誕生は、美しい牧歌的な出来事ではないのです。
「主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし」の続きには「権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けて下さいました。わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえにあわれむと約束なさったとおりに」(ルカ1:51~55)とあります。
主よ、どうかこのクリスマスの時、飲食と享楽を求め、霊的でない欲望を、私たちの心から遠ざけてください。
神に生きる決意をもって2015年を迎えさせてください。アーメン
今月のことば
イエスは彼らにむかって言われた、「きよめられたのは十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。」
=ルカ17:17=
十人のらい病人が遠くから主に呼びかけました。彼らは、悲痛な思いで、声を張り上げて叫びます。「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」(13節)と実に切実で卑下した調子で叫びます。私たちも、どれ程度々「神様、神様」と叫んだことでしょう。私たちが神様に何かをしてもらおうと願う時、神様は何時でも「神様」と呼ばれるお方です。
この十人のらい病人たちは、願っていたことを叶えていただきました。ところが彼らのうち一人だけが引き返してきて、その愛を真剣な思いで証ししています。他の九人は、自分たちの癒しを、何処か別のところで祝っていたのでしょうか。彼らにとってイエス様はどのような存在になったのでしょうか。
「きよめられたのは、十人ではなかったのか。ほかの九人は、どこにいるのか」と言われた主イエス・・・。残りの九人とは誰のことでしょうか。感謝を
忘れた九人の一人は、私自身でした。
私たちは日々、神様に請い求めています。あの叫びを悔い改めと呼ぶなら、切実に叫び、うめき、叫びです。その声は私たちの周りからも聞こえています。
しかし、感謝の方は、どうでしょう。らい病人は癒された時、またその苦しみから解放された時、また自分は救いの中に加えられていると思い、安全だと思った時、日々、私たちは感謝するでしょうか。神様に栄光を帰しているでしょうか。
信仰生活で、どう思うかこそ大切です。
今月のことば
あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。
=申命記6:5=
私たちの心の中には、程ほどに、周りに合わせて、疲れを覚える程ではなく、むしろ継続が大切であると言う思いが芽生える者です。
仮に、永遠の命、救いが示された時、程ほどに探し、求めるでしょうか。安易に手にするものを、人は不思議ですが信用しません。
神は、真実、私たちに迫っているのです。なぜ神は「愛してもよろしい」とは言わないで、命令とか課題を「あなたの神、主を愛さなければならない」と言われるのでしょうか。実は、神は、すでに知っておられるのです。私たちの中には、神の愛に逆らう何かがあり、不真実に向かう傾向のあることを。
預言者たちが「姦淫」と名付けるもの(預言者は他の神々への私たちの不誠実な間違った愛を言います)に向かう傾向のあることを。神を愛する代わりに、私たちは、空しいものに心を傾け、私たちを愛せない・愛さない神々に心を傾けることを。
しかしそのようなことを、神は易々と受け入れません。神は私たちへの愛を、妬み深いとさえ言います。それ程に、私たちに求めます。それは、神ご自身のためだけではなく、私たちのためなのです。神は、私たちに真の救いを、永遠の命を、日々の平安を得させるために、迫るのです。
このみ言葉を、愛なき者の言葉なら、脅迫・強制・命令になりますが、私たちを、滅びと不安と貪欲に貶める偶像の奴隷状態から、真実、開放をもたらすために、私たちに「真心」を求めるのです。このご命令は、神の真実の愛があってのものであると知るとき、神の導きをいただいて、そう有りたいと願うのではないでしょうか。
現実は厳しい・・・。その通りです。ではそこから逃れるために、人間を破壊する危険なドラック、快楽やもろもろの中毒に依存するのも致し方のないことと見過ごせますか。人は見て見ぬ振りをしますが、だからこそ、神は私たちに求めたのです。
「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」と。
今月のことば
主は聖なる者の集いにおいて恐るべき神、そのまわりにあるすべての者にまさって大いなる恐るべき者です。
=詩篇89:7=
「集い」には、その集まりの雰囲気、独特の臭いとでも言うべきものがあるでしょう。私たちもその雰囲気・臭いで参加することがあります。音楽会、同好の集い、政治的な集い、上品であれ下品であれ、雰囲気を感じます。今流で言えば異業種の集い、宗教的な集いもあります。その集まりの雰囲気でこれからの参加・不参加を判断する人もいるでしょう。
キリスト者の雰囲気・臭いがあるとすれば、クリスチャンは、鈍感より敏感であるべきでしょう。聖書の中には「聖なる者の集い」について語られています。そうして、その「集い」の中心が「恐るべき神」であるというのです。もし、楽しい雰囲気であるならば、気軽に集えるでしょうが、「恐るべき神」の「集い」であれば、心を整え、身支度して参加することでしょう。
教会の入り口に「お気軽にお入りください」という案内を掲示したら、教会をどのように見るでしょうか。そこに集う人々をどのように想像するでしょうか。病院の入り口に「お気軽にご利用ください」と案内されたら、信頼できるでしょうか。
「教会」が気後れする場所、敷居の高い所、「聖なる集い」であるなら、そこに集う一人一人もまた、神の招きを受けた喜びと畏れを抱いて集うでしょう。
信仰者であっても弱い人間です。疑い迷う者です。言葉では「信頼いたします」と言いつつ、心乱す者です。無気力が次の無気力になります。
「今月のことば」の「主は聖なる者の集いにおいて恐るべき神」は、弱さに慄き、信仰の乏しい心を知って集う者に対して恐れ慄かせる神でしょうか。「教会」に集う者の願いは、自分の崩れそうな信仰に新しい力を求め、神の愛によって立て直していただく希望をもって集うのです。「教会」は「集い」の場です。ただ一人で神のみ前に集っても、そこに祈りの友、支えてくれる人がいるのです。
孤独になり、友のいることを見失っている時、あなたの隣りに、愛に富みたもう「恐るべき神」のおられることに感謝したいものです。
今月のことば
わたしから離れては、あなたがたは何一つできない。
=ヨハネ15:5=
私には自由意志がある。自分で選択し、決定することが自立であり、大人の証明であると考えています。その通りです。自分の意思で職業も選べますし、結婚することも出来ますし、しない選択も出来ます。人それぞれの生き方をしておりますから、この冒頭のみ言葉に同意することは出来ないでしょう。
私たちは、神から離れても何ら不便を感じることなく、むしろ信仰という絆に縛られたくないという思いを持った人は多いのです。
しかし、私たちは何でも出来るのでしょうか。人それぞれが、自分には出来ると思うからこそ、自分の思い通りに相手を支配しようとするでしょうし、相手もそれを拒む時、諍いが起こり、戦いになるのです。
実は、私たちは、何も出来ない自分であることをこの神様のみ言葉が、鋭い刃のように心に突き刺さり迫ってくることを嫌うのです。
では、私たちは何が出来るでしょうか。心の貧しい人を愛せるでしょうか。悲しんでいる人を励ますことが出来るでしょうか。死に怯える人に希望を与えることが出来るでしょうか。自分自身の命を永らえることは出来るでしょうか。いと小さき物の命にどのような思いを持っているでしょうか。
野に咲く花に感動して、それを摘んで自分の好みのところに置き心は満足感で満ちるのです。私たちは綺麗な装いで着飾ります。しかし、心の汚れをどのように着飾るのでしょうか。私たちは、自分の汚れを隠す術を探り出す名人なのです。
しかし、私たちは何一つ出来ていない、出来ない存在なのです。人の目をごまかせても、神様に対しては無理なことです。大切なことは、「何一つ出来ない」自分を認め、そこから、「何一つ出来ない」者を、愛し、導いて下さる神に生きることを、日々に思うことを、新しい出発点にしようではありませんか。そのような決心こそ、私たちの誇りにしようではありませんか。「無・否」を認めるところに、希望があるのです。
大 漁
朝やけ小やけだ
大漁だ
大はいわしの
大漁だ。
はまは祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
いわしのとむらい
するだろう。 金子みすゞ
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」