2023年7月号
№193
号
通巻877号
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「ローマ人への手紙」研究 (104)
第57課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章11~36節 (16)
「一部のイスラエル人が頑なになったのは」。この言葉は二つの点で真実です。イスラエル人の頑なさは全体的ではなく一部なのです。というのは、幾世紀にもわたる教会の全歴史を通じて、いくらかのユダヤ人たちもキリストへの回心は間断なくあり、従って、頑なさが全体的であることはないからです。何故ならば、それが永遠に続くことはなく、散在している個々のユダヤ人のみでなく、ユダヤ人社会がキリストに回心する時が来るからです。
パウロは頑なさの度合いについて述べているのではありません。頑なであった人々は徹底的に頑なであったのです。しかし、彼が言及しているのは、すべてのユダヤ人が真理に頑なであった時は一度もなかったという事実とユダヤ人社会の頑なさが終わるという時があるという事実なのです。
「異邦人が全部救われる至るまでのことである」。この言葉の前述の二つの形態の解釈によって、各々異なった解釈がされています。異邦人たちが救われている間は、ユダヤ人たちの一部は頑なままで、ただごく少数のユダヤ人たちが回心するに過ぎないという意味であり、異邦人が全部救われた後のユダヤ人の回心については何も意味していないと考える人たちもいます。
この考え方によると、この言葉の意味は、パウロの時代に存在した状態は、不変のまま世の終わりまで継続し、その後(異邦人が全部救われた後)にキリストの再臨と審判の日が続くということに過ぎません。この解釈はパウロがこの言葉を重大な奥義として述べている点を考慮していません。
この言葉のもう一つの解釈は、パウロは異邦人が全部救われるに至った後にユダヤ人の頑なさは取り去られて、彼らがキリストに回心することを意味しているのだとします。「・・・まで」(until)と訳されているギリシャ語は、その後に不定過去接続法の動詞が来ており、従ってuntilという訳語は正確です。ギリシャ語新約聖書の用法からすれば、ここの言葉を「異邦人たちの回心が継続している間に」と解釈するという考えは適当ではありません。
このことは聖書の他の箇所にあるこのギリシャ語の用例を参照すれば判ることです。例えば、黙示録15・8「・・・七人の御使の七つの災害が終わってしまうまでは、だれも聖所にはいることはできなかった」(七つの災害が終わってしまった後、再び聖所には入ることが可能となった、の意味)。黙示録17・17「神は御言が成就する時まで、彼らの心の中に、御旨を行い思いをひとつにし、彼らの支配権を獣に与える思いを持つようにされたからである」。(神の御言が成就された後は、獣はもはや支配権を持つことはない、の意味)。
この第二の解釈が正しいものであると思われます。イスラエルの頑なさは異邦人のすべてが救われてしまう時まで継続し、その後、彼らの頑なさは取り去られ、彼らはキリストに回心するのです。ここで「異邦人が全部救われるに至る時まで」という言葉の正確な意味は何かという問題が残ります。
最も考えられ易いのは、異邦人の中に神の選びの民全部と言う意味です。ある学者たちは、「異邦人が全部」とは、世界のすべての民族からキリストに回心する異邦人の意味であると主張します。いずれにせよ、異邦人の救いに関する神の主要目的が達成されてしまう時、ユダヤ人の頑なさは取り去られ、彼らの回心がそれに続くのです。
私たちが銘記しておかなければならないことは、ここで私たちは時が満ちるまでは決して完全には明らかにならない預言の言葉を取り扱っているということです。その成就の時期と仕方について、種々の疑問が生じるけれども、これらの疑問には答えることはできないし、また答える必要もないのです。ただ、今の段階でわかるのは、ユダヤ人たちの極めて急激、また迅速なキリストへの回心が起こるということだけです。異邦人の全部が救われる時期も正確には言うことはできません。それらは奥義であり、私たちには定かには啓示されていないのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
第57課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章11~36節 (16)
「一部のイスラエル人が頑なになったのは」。この言葉は二つの点で真実です。イスラエル人の頑なさは全体的ではなく一部なのです。というのは、幾世紀にもわたる教会の全歴史を通じて、いくらかのユダヤ人たちもキリストへの回心は間断なくあり、従って、頑なさが全体的であることはないからです。何故ならば、それが永遠に続くことはなく、散在している個々のユダヤ人のみでなく、ユダヤ人社会がキリストに回心する時が来るからです。
パウロは頑なさの度合いについて述べているのではありません。頑なであった人々は徹底的に頑なであったのです。しかし、彼が言及しているのは、すべてのユダヤ人が真理に頑なであった時は一度もなかったという事実とユダヤ人社会の頑なさが終わるという時があるという事実なのです。
「異邦人が全部救われる至るまでのことである」。この言葉の前述の二つの形態の解釈によって、各々異なった解釈がされています。異邦人たちが救われている間は、ユダヤ人たちの一部は頑なままで、ただごく少数のユダヤ人たちが回心するに過ぎないという意味であり、異邦人が全部救われた後のユダヤ人の回心については何も意味していないと考える人たちもいます。
この考え方によると、この言葉の意味は、パウロの時代に存在した状態は、不変のまま世の終わりまで継続し、その後(異邦人が全部救われた後)にキリストの再臨と審判の日が続くということに過ぎません。この解釈はパウロがこの言葉を重大な奥義として述べている点を考慮していません。
この言葉のもう一つの解釈は、パウロは異邦人が全部救われるに至った後にユダヤ人の頑なさは取り去られて、彼らがキリストに回心することを意味しているのだとします。「・・・まで」(until)と訳されているギリシャ語は、その後に不定過去接続法の動詞が来ており、従ってuntilという訳語は正確です。ギリシャ語新約聖書の用法からすれば、ここの言葉を「異邦人たちの回心が継続している間に」と解釈するという考えは適当ではありません。
このことは聖書の他の箇所にあるこのギリシャ語の用例を参照すれば判ることです。例えば、黙示録15・8「・・・七人の御使の七つの災害が終わってしまうまでは、だれも聖所にはいることはできなかった」(七つの災害が終わってしまった後、再び聖所には入ることが可能となった、の意味)。黙示録17・17「神は御言が成就する時まで、彼らの心の中に、御旨を行い思いをひとつにし、彼らの支配権を獣に与える思いを持つようにされたからである」。(神の御言が成就された後は、獣はもはや支配権を持つことはない、の意味)。
この第二の解釈が正しいものであると思われます。イスラエルの頑なさは異邦人のすべてが救われてしまう時まで継続し、その後、彼らの頑なさは取り去られ、彼らはキリストに回心するのです。ここで「異邦人が全部救われるに至る時まで」という言葉の正確な意味は何かという問題が残ります。
最も考えられ易いのは、異邦人の中に神の選びの民全部と言う意味です。ある学者たちは、「異邦人が全部」とは、世界のすべての民族からキリストに回心する異邦人の意味であると主張します。いずれにせよ、異邦人の救いに関する神の主要目的が達成されてしまう時、ユダヤ人の頑なさは取り去られ、彼らの回心がそれに続くのです。
私たちが銘記しておかなければならないことは、ここで私たちは時が満ちるまでは決して完全には明らかにならない預言の言葉を取り扱っているということです。その成就の時期と仕方について、種々の疑問が生じるけれども、これらの疑問には答えることはできないし、また答える必要もないのです。ただ、今の段階でわかるのは、ユダヤ人たちの極めて急激、また迅速なキリストへの回心が起こるということだけです。異邦人の全部が救われる時期も正確には言うことはできません。それらは奥義であり、私たちには定かには啓示されていないのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
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緑を大切に!
書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円