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「ローマ人への手紙」研究 (106)
第60課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章11~36節 (18)
この問題に関して、取り上げられるもう一つの聖句は、ルカ21:24「・・・そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らは踏みにじられているであろう」です。この聖句はユダヤ人の回心または回復について述べているとする考え方に対し、これは異邦人の時期が満ちるまで、エルサレムが踏みにじられているということを教えているというだけであって、その後に変化がおこるということまで意味するものではないと主張されています。
この主張は正しいかもしれないが、他方において、その意味が単に、エルサレムが世の終わりまで異邦人によって踏みにじられているだろうというだけのことであるとすれば、そのことを異邦人の時期が「満ちる」という表現で言っているのは、特異であると見られるべきでありましょう。通常の読み方をすれば、この聖句は「エルサレムは異邦人の時期が満ちた後は、もはや踏みにじられることはないであろう」と言う意味になります。しかし、この聖句は、エルサレムの未来について語っているのであって、ユダヤ人のキリストへの回心について述べているのではないから、私たちが今論じている問題には、あまり意味をもっていないものとして、退けられるべきでしょう。
しかし、この問題について、決定的な意味をもっていると考えられるイエスの御言葉があります。すなわち、マタイ23:39「わたしは言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」です。言うまでもなく、ここでイエスは、イエスを軽蔑し拒んで、やがてこの後で、彼を十字架につける不信仰なユダヤ人のことを語っておられるのです。
イエスは彼らに、「主の御名によってきたる者に祝福あれ」という時まで、再びイエスを見ることはないと告げられています。このことは個々のユダヤ人が、教会の歴史を通して、個別に行う回心のことを言っておられると取ることができるでしょうか。これらの言葉は確かにユダヤ人が集団的にイエスをメシヤとして受け入れる時がくるということを意味しておられると考えるべきでしょう。
もちろん、この聖句はユダヤ人がそのように言う時がいつであり、どのような状況の下であるかを明らかにはしていません。しかし、いずれの時にか、彼らがそのように言う時が来るという事実について、この聖句は明らかに告げているのです。従って、これはユダヤ人の未来におけるキリストへの回心のことを語っている預言と言い得るのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」