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あなたに聖書を
「キリスト教百話」・・・10
問10 イエス・キリストによって啓示された神がまことの神であるという言い分は分かりましたが、すべての人に通用するのか、キリスト教の排他性・独善性ではないかと思います。
答 日本に初めてキリスト教が伝えられた時、仏教の僧侶とキリスト教の宣教師との間で、論争が交わされたことがあります。この論争が、お互いの特徴を披瀝し合うという意図にとどまっていたのであれば、それなりに意義があったでしょうが、それぞれの宗教の優劣を争う意図が潜んでいた限りにおいて、これは無益な営みに終わったとしか思えません。
というわけは、こと信仰に関する限り、比較対象が出来ないからです。例えば、結婚している人が、自分の配偶者以外の異性の方が結婚相手として良い等という比較は、出来ることではないからです。それは相手を信頼して人格的関係にある者にとっては出来ないことであるからです。
結婚という関係は排他性を本質的に持っています。そうであることを前提として、この排他性を脅かさない限り、より広い交流関係を結ぼうとする夫婦のありようは、望ましく喜ばしいものであると言えます。
ただし、その場合、「信じていると言うが、それは騙されているのではないか」という問いがありますから、これにどう答えるかという問題もあります。これはなかなか難しい問題でありまして、今日では「マインドコントロールされているものをどう解くか」という問題でもあります。
この点、例えば親鸞は弟子から「師は『南無阿弥陀仏』と称名念仏すれば救われるとおっしゃるが、それは本当か」と聞かれた時「わたしは師の法然からそう教えられ、そう信じているのであって、この教えが瞞しごとであって、そのため地獄に落ちるとしてもそれは本望だ」という旨の答をしたと聞いていますが、信じるということがそういう性格を帯びていることは否定できません。
そういうことを踏まえて言えば、キリストによって神を信じてきた人たちは、騙され続けてきたのではないか、という問いが発せられそうです。しかし、その正否を断定する根拠は自分の側にはありませんので、答えようがありません。あるのはこの2000年にわたってキリストによって神を信じて生きてきた多くの人がいたし、今もいるという事実です。キリストを信じると言いながら、キリストの意図に反することを繰り返してきた事実もありますが、キリストを信じるが故に愛に生きた人が大勢いたことも事実です。
見物席からの批評はいくらでも出来ます。ただしクリスチャンはキリストという人生の名監督に出会い、その父である方を神と信じることが出来た者として、このように生きているのです。見物席から降りて、舞台を共に踏むことから、ことは始まるのです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
6日 橋谷英徳(日本キリスト改革派関キリスト教会牧師)
13日 橋谷英徳(日本キリスト改革派関キリスト教会牧師)
20日 相馬伸郎(日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師)
27日 相馬伸郎(日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」