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今月のことば
なにゆえ、もろもろの国民(くにたみ)は言うのでしょう。「彼らの神はどこにいるのか」と。
われらの神は天にいらせられる。神はみこころにかなうすべての事を行われる。
=詩篇115・2~3=
私たちは悲しみの時、苦しみの時、また喜びの時、天を見上げ、天を見つめます。人は平和を求め言葉やペンや筆を用いたり、平和の名の下に数多くの砲弾、銃声を降らせ、平和の実現のための正しい手段と言います。地上に平和(天国)を建てようとする思いがそうさせます。それは、歪んだ姿です。
天と言われ地と言われるものについての光や理解や教示を聖書から得ている人は、地上の生活を楽しんでいる「もろもろの国民」から、様々な嘲りを受けることでしょう。この嘲りはキリスト者にとって苦痛ではありますが、信仰のゆえにである限り、光栄でもあります。
人は言うでしょう。「あなたの神はどこにいるのか」と。この悲惨な地上の出来事に対して、神はどのように答えるのか、と問われる時、戸惑い、言葉を失う実に恥ずかしい自分に気付くのです。どのように答え、どのような言葉が適切かと思うなら、それは誤りです。
人は神を証明することなど不可能です。試みへの思い悩みは無用です。むしろ、単純率直に、何にも頼らずに、「われらの神は天にいらせられる」と告白しようではありませんか。神を示すことは、私たちには出来ません。しかし、キリスト者・信仰者には可能なのです。神は自らご自身を示し証明される、と証し、告白することです。
もろもろの国民のこの悪意に満ちた、「彼らの神はどこにいるのか」と言う問いかけに、神ご自身が証明されるのです。
それを告白し、信じ、生きるのがキリスト者・信仰者なのです。
我が魂よ忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
あわれみ深い主イエスに
はじめてお会いしたあの日を
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
取るに足らぬ我を見つめ
わが名呼びたるあの御声を
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
悲しみに冷えた心が
喜びに燃えたあの時を
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
他では得られない まことの
愛と安らぎのある御もとを 水野源三著・第3詩集「今あるは神の恵み」
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」