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あなたに聖書を
「キリスト教百話」・・・11
問11 イエス・キリストによって啓示された神をまことの神と信じるのがキリスト教の信仰だと言われますが、その信仰ということがどうして人間の内に起こるのでしょうか。
答 これは「問7」で、神が人間の想念によって作り挙げられるものでないのであれば、神の方から「わたしはこういうものだよ」といって自分を紹介してくれなければ知りようも信じようもない、ということを述べました。事柄はまさにその点にかかっているものでありまして、例えば目の前に神が現れたとしても、その方を神だと認め、かつ信じることが出来る認識力を人間が本来持っているか、ということが問題なのであります。
キリストの第一弟子のペトロは「あなたは活ける神の子救い主です」とキリストに対する信仰を告白しましたが、そのあとで、キリストから「悪魔よ、退け」と叱りつけられました。それは、ペトロの考えていた神の子キリストは、当時のユダヤ人を占領下においていたローマ帝国の支配から開放する力ある王であったからです。そういう王の出現はユダヤ人のすべてが期待していたものでした。
キリストの力ある話や奇跡的な力を発揮しての業を見た人たちが、そういう期待を寄せたことは、よく理解出来そうです。しかし、そういう考えは、キリストの側からすれば、悪魔のそそのかしであって「父」から出たものでない故、これをサタンの割り込みと見て取って「退け」といわれたのでした。「見ても見えない」というのは、こういう人間の側の先入観や思い込みがあるからに他なりません。
では、どうしたら「見たら見える」のか、また「今まで見えていなかったものが、どうして見えるようになるのか」ということになります。答は「聖霊によって」であります。「聖霊」というのは「神の霊」のことです。これは、言い換えると、神に関することが分かるようにさせられる・神から与えられる認識力というべきものです。
知性、理性、悟性、感性等は人間が生来持っているものですが、神認識を可能にする霊性は持っておりません。全く無いとは言えなくて、多少は残っていると言っても、全然役に立たないのが事実であると言えましょう。
パウロは聖霊を受けた時、「目から鱗のようなものが落ちた」と言っています。今まで自分の内にあって、自分の考えや行動を律して来て自信満々であったものが、音を立てるようにして崩れ落ち、今まで全く気付かないでいたことが見えるようになった、という体験が、こういう表現で言い表されているのです。
「松のことは松に学べ」とは明言です。こちらの計らいを主にしないで、先方から語りかけてくるのを待つ姿勢が求められるというわけです。神のことは神の側からの働きかけとしてのイエス・キリストを、聖霊によって知らされることが、信仰と言うものも、自分で獲得するものでなく、聖霊によって与えられるものであるということが分かれば、聖霊を求める祈りの大切さが分かろうと言うものです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
11月放送予定
3日 笠井恵二 (中部学院大学宗教主事)
10日 笠井恵二 (中部学院大学宗教主事)
17日 志村 真 (岐阜済美学院宗教総主事)
24日 志村 真 (岐阜済美学院宗教総主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」