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ビルマ
昭和22年
4月5日
―反省―(2)
林大尉は「鋭い反省である。過去に犯した罪の行為は、君ばかりではない。日本国民みんなが同じように犯したのだ。敗戦、そして牢獄の中にあって悩むだけ悩み、苦しむのだ。そのどん底に落ちて、心の毒素を流し、清めなければならない。そこから一歩一歩這い上がるとき本当に安らかな平和の世界があるのだ。それは君の努力によってのみ果たせる」と言われる。
東大尉は「お前はよくそれに気付いたなあ、それは尊い悩みである。お互いに自分の過去を振り返ってみると、その罪の深さに驚くが、その罪を神の前に「ざんげ」するとき、神は必ず許してくださる」と言われる。
自分では、心から悩み、苦しみ、目に見えない神に向かって、己の罪を「ざんげ」したつもりであるが、心の平安と、清い澄んだ気持ちになれないので、今日も東大尉にそのことを話す。
東大尉は「お前は神の限りない大いなる慈悲を信じないからだ。神の愛はあまりにも高く、無限であり悠久である。われわれの目に見えないから実感として迫ってこないのだ。親子関係について考えて見よ。親は子に無限の愛を与える。どんなに悪い道楽息子でも、親は可愛い。悪ければ、悪いほど可愛がるものが親の情である。
例えば道楽息子を、親は涙を流して諌めても、聞き入れず遊興費のために親の資産を蕩尽し、親を不幸に陥れても、その子が過去を反省し、今までの不幸を詫びたなら、親はきっとその子の罪を許してくれるだろう。神の愛も親子の関係と同じように無限である。
神は決して人間の罪悪を咎めるようなことはなさらない。ひたすら人間の進化・向上のみを願われるのである。陛下もわれわれ国民を赤子として、その幸福のみを願われるのである。大罪を犯した民でさえ咎めるようなことはなさらなかった。
明治天皇の御製に
罪あらば 我をとがめよ 天つ神 臣は我が身の 生みし子なれば
と自分を責めておられる。これが神の心である。神を信ぜよ。神の無限の愛を疑ってはならない。唯信ずるのだ」と噛んで含めるように、短い運動時間を利用して話して下さった。東大尉の温かい力のこもった言葉に、なんだか神の愛が分かるような気がする。
この宇宙を創造され、支配されている神。目では見ることが出来ないが確かにある。この神こそ聖書に書かれている神に違いない。
何か困った時、自分の力ではどうにもならなくなると頼む神、即ち、「困った時の神頼み」でお参りする、あちこちに祭られている神とは違う。人類を初め、全てのものを恵み愛してくださる神様が本当の神様である。
神を知らない生活は、人に自分を立派に見せようとする。世間の人から褒めて頂きたいと思い、自分を欺き、人をごまかしてきた醜い己の姿をハッキリ心の中に見た。
一年有半の独房生活の苦しみ、戦犯者として裁かれたこの生活は決して無駄ではなかった。神が与えてくれた試練でもある。悲哀と苦痛の涙の中に「神の愛を知った喜びと慰めの光」を見た。明日への希望をもって生きよう。
祖国よ「敗戦による苦しみこそ民族に与えてくれた神の愛である」ことを知るべきである。そこには真実の新しい日本が生まれる。憎しみと無念の思いを超えて新しい日本を目ざして立ち上がってくることのみを念ずる。
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」