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『旧・新約婦人物語』(51)
ピラトの妻
イエス様を十字架に付ける宣告を下しましたローマの総督ピラトは、歴史の中で一番憎まれた人物の一人でありましょう。ピラトはローマ皇帝テベリオに選ばれまして、紀元26年頃、ユダヤの総督として遣わされたのです。彼はまことに残酷で、無慈悲な男であったばかりでなく、性格が頑固一徹で、一度こうと決心し、決定したことは、それがどんなに間違っていましても、「それは間違っていた」と言ったり、決定を取り消したりなどする人物では、決してなかったようであります。
ピラトのユダヤ人に対する政策は、余りにも独裁専制主義であったために、紛争が絶えず、彼はとうとうローマ皇帝に訴えられてしまいました。紀元37年頃のことですが、ローマ皇帝より、ローマに呼び戻されてしまい、ユダヤには別の人が総督として遣わされることとなったのです。
彼のいろいろな間違った政治のやり方や悪い行為などが、ローマで調べられることになってしまいました。ところが彼がまだローマに帰り着かない先に、皇帝テベリオが死んでしまったのです。ピラトは皇帝テベリオの前で取調べを受け、自分を弁明することが出来ませんでした。歴史家の伝えますところでは、ピラトはその後、フランスの南部に追放されまして、哀れにもそこで自殺をとげたとか言われています。正しい政治を行わず、良心的に善を尊ばなかったためにピラトは、彼自からの罪のために滅んでしまいました。
さて、お話をイエス様が総督ピラトの前に立たれました時に戻しましょう(27:11以下)。ピラトは先ず、イエス様に向かって、「あなたがユダヤ人の王であるか」と尋ねました。イエス様は、はっきりと「そのとおりである」とお答えになられました。ところがイエス様をなき者にしようと、イエス様を捕らえ、ピラトの前に引っ張って行った祭司長や長老たちが、次々と不利な証言をピラトに訴え続けましたが、イエス様は彼らには一言もお答えになりませんでした。イエス様のこのような態度には、総督ピラトでさえいぶかるほど沈黙されていました。
総督ピラトが裁判の席に着いていました時、一つの不思議な出来事が起き上がりました。それは群衆が裁判の開かれている法廷の広場に集まり、キリストを十字架につけよ、十字架につけよと、激しく叫び続けている時のことでした。ピラトの妻の所から、一人の使いが来まして、総督に何か話したいことがあると告げました。
裁判の開かれている大切な時に、妻が夫の総督を煩わすというのはどうしたことでしょう。余程、何か重大な急を要することでも起きませんと決して裁判の最中に、夫の総督を煩わすといったことをするはずがありません。ピラトは驚いて、何事が起こったのかと、問うたことでありましょう。
どんな重大な事件が起きたと言うのでしょうか。彼女は夫のピラトに、「あの義人には関係しないで下さい。わたしは今日夢であの人のためにさんざん苦しみましたから」(19)と、使いの者を通して告げました。
ピラトの妻のこの言葉によって、わたしたちは彼女についていろいろなことが、分かるように思います。その一つは、彼女は総督の妻として、また、裁判をする立場の人の妻として、彼女自身の立場と責任を非常に強く自覚していて、今、主人がどういう人を裁いているのか、またどういう問題に主人は直面しているのか、と言ったその時の状況をよく知っていたということであります。事件そのものの善悪に関しては別問題として、ピラトの妻は主人のしていることをよく知って、主人を助け、できるだけ正しい裁判をするように願っていたのでしょう。
彼女がどうしてこの場合、キリストは義人であることを、こんなにはっきりと、知っていたのでしょうか。わたしたちにはその原因は分かりません。たぶん、彼女はイエス様のご生涯を聞き、知っていたのか、法廷に連れ出されたもうた前後の関係をよく調べたりした結果として、そのことが分かったのかも知れません。
総督のピラトでさえ、イエス様には何の罪もないと、裁判の中で何度も主張しています。18節を見ていただきますと、分かっていただけますように、祭司たちがイエス様を総督に引き渡しましたのは、彼らの妬みのためであったのです。このことを、ピラトはよく知っておりました。
とにかく、ピラトの妻は、イエス・キリストが義人であると確信しまして、主人が裁判で、もしも誤った判決を下したら大変なことになると考え、急いで使いの者を送り、自分の思うところを主人に告げたのでありましょう。しかし、彼女からの伝言は、十分に意を尽くしたものとは言えないように思います。と申しますのは、彼女がその日、非常に恐ろしい、心に不安を感じさせる夢を見ただけなのです。その夢の内容については19節の使いのものの伝言からは、語られてはいないからです。恐らく、その夢の内容は余程重大な意味をもっていたのでありましょう。
それで、彼女は“キリストのためにさんざん苦しみましたから、あの義人には関係しないで下さい”と、主人に進言せずにはおれない心の不安が、きっと彼女の心にあふれたのでしょう。
このように、ピラトの妻の場合、法廷に立ち、人を裁く自分の主人を、判決に誤りを犯さぬように、正しい方向に導こうと一生懸命に努力することは、妻として主人への果たすべき第一義的な責任を果たしているものと思います。わたしたちは、自分の夫が勤めている役所や、会社や、学校で、あるいはまた、主人自身が商売のことで、いろいろな問題や、悩みに遭遇し、苦しんでいる時、妻として真心から愛と同情をもって夫とともに話し合い、助け合って行くことこそ、夫婦が当然取るべき生活態度であると考えます。
もしここで、ピラトが妻の言葉に耳を傾けて、彼女の言葉に従い、正しい判断裁判を下しておりましたら、彼は決して、イエス様を十字架につけるような、愚かな失敗はしなかったことでしょう。また、極悪非道の悪人のように、世間の人々から蔑まれたり、惨めな死に方をしなかったことでしょう。
この話から教えられますことは、わたしたち夫婦はお互いに、神様のお導きに従って、どのようなことであれ、すべての問題や悩みを、キリスト者として、祈りによって解決し、助け合っていかなければなりません 。さもなければ、わたしたちは、滅びの道へと足を踏み外し、恐るべき方向に行くということを、強く教えられているのです。
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。尚、本の在庫はありません。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
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