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第62課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章28~29節 (20)
「福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについていえば、父祖たちのゆえに、神に愛される者である。神の賜物と召しとは変えられることがない」(11:28~29)。
この二つの節は、パウロがユダヤ人の拒否と未来における彼らのキリストへの回心について、ここまで述べてきたことの要約です。「文脈全体から見て、パウロはユダヤ人の個々の人について述べているのではなくて、集団としてのユダヤ人の拒否と回復について述べていることは明らかであるから、パウロが今ここで考察している召命と選びも同様に、集団としてのユダヤ人について言われていることであって、個々のユダヤ人の救いについて言われているのではないことも明らかである」(ホッジ)。
このことを銘記しておかないと、この二つの節の正しい意味を把握することはできないのです。もし、召しと救いと選びとが個人について言われているとすれば、ここにあるように同じ人が福音については敵であり、神の賜物と召しは変えられることがないので、同時に愛されているものであるということは言えなくなってしまうのです。しかし、パウロが集団としてのユダヤ人の拒否と未来における回心ということを述べているということを念頭に置けば、すべてが明瞭になるのです。
「福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされている」。ユダヤ人たちは不信仰のために退けられたのです。彼らは良いオリブの木からは切り取られた枝でした。このように彼らは切り取られることによって、救いは異邦人のところへもたらされました。異邦人を救うために、神はユダヤ人たちを敵と見做し、そのように扱われました。もちろん、このことは罪の中に死んだ人々が永遠に滅びたことを意味します。彼らは唯一の救いの方法を拒否した。すなわち、メシヤであるイエスを拒んだのです。
使徒行伝とパウロの書簡から私たちはユダヤ人がキリストの福音の手厳しい敵であったことを知ることが出来ます。しかしながら、「彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされている」という表現は、多分、彼らの父祖のゆえに愛されるのが神の御旨であるからには、彼らは神の敵であるという意味であろう。神の敵であるから、彼らは福音の敵であり、福音の忠実な宣教者たちの敵でもあったのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」