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テアテラのイゼベル
=ヨハネの黙示録2:18~28)
テアテラにあった教会は、小アジアの七つの初代教会の一つで、原始キリスト教会として有名な教会であったようです。先にわたしたちは使徒行伝6章より、ルデヤについて学びましたように、このテアテラは彼女の故郷で、有名な紫布の産地でありました。ルデヤはその特産品の商人でギリシャのピリピで商売をしていたのです。
さてヨハネの黙示録2章18~19節以下を読んでみますと、当時のテアテラの教会には、いろいろと良い点があったようです。「神の子が、次のように言われる、わたしは、あなたのわざと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っている。また、あなたの後のわざが、初めよりもまさっていることを知っている」と聖書にある通りです。
このようにテアテラの教会は神に大変なお褒めをいただいていますが、わたしたちはどうでしょうか。ここで個人としてまた教会員として、わたしたちは、静かに自己反省をしたいと思うのです。わたしたちが歩んで来た過去の歩みはどうであったでしょうか。善き業に富んでいたでしょうか。愛と信仰と奉仕に満ちていたでしょうか。また忍耐をもってすべてのことをなして来たでしょうか。わたしたちの教会の過去の歩みはどうでしたでしょうか。
神様がテアテラの初代キリスト教会に向かってお用いになったお言葉は、わたしたちの教会にも当てはまるでしょうか。神は、怠けているところ、愛のないところ、不信仰なところ、忍耐と奉仕の足りないところを知っていると仰せになるのではないでしょうか。
しかし、このような神様から、お褒めに与りながらも、テアテラの教会には、尚欠けている点があったと言うことが20節以下で示されています。
「しかし、あなたがたに対して責むべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像に捧げたものを食べさせている」とあります。
アブラハム・カイパー博士の言葉によりますと、当時のテアテラの町の外には、有名な女占者が美しい宮殿を作り、その内に坐って占いをしていたということです。この占者の本当の名前は何と言うのかわかりませんが、彼女の残酷な性質と悪魔のような性格が旧約聖書に登場する、あの悪事で有名なアハブ王妃イゼベル(旧約聖書列王上18章参照)の行いによく似ていたために、彼女をイゼベルと呼んだのかも知れません。とにかく、そのような不倫の女が、テアテラにいたということは、歴史の面からも確かなことでありました。
テアテラの教会の人たちは、何故、こんな女性を、そのなすがままに任せていたのでしょうか。そのわけが、ここにははっきり書かれてはいませんが 、その理由の一つは、教会の信者のある一部の人が彼女の悪い教えに惑わされて、これに妥協していたからに違いありません。彼らは預言者と自称するイゼベルに全く欺かれ、偽預言者の教えを神のみ言葉だと信じていたようです。
わたしたちはこれを読んで、どうして彼らがたやすく偽預言者に欺かれたのでしょうかと、疑問さえも起きるのであります。しかし静かに自分の心の内を反省してみますとき、わたしたちもこれによく似た愚かな態度を時々とっているのではないでしょうか。
たとえば、教会の一致を守っていない教会員、あるいは教会がもっている信条を割引している教会員らの、なすがままにまかせているような場合が少なくないと思います。また教会に対する責任を少しも考えていない教会員や、勝手に礼拝その他の集会に出ない教会員はいないでしょうか。
あなたの教会では、いわゆるクリスマス信者はいませんか。これらに対する教会の処置はどうしていますか。責むべきことがあるにもかかわらず、それを放置しておいて、良く指導することをしない教会は、身体に重い病のある病人と同じで、病毒が全身に回わって滅亡するより外はないでしょう。
もう一つ大切なことがあります。それは、教会員は、すべての間違った迷信を捨てることです。ご承知の通り日本にはいろいろの迷信が満ちています。卑近なところでは、お日柄が良いとか悪いとか、方角が良いとか悪いとか、結婚の場合、干支によって相性をどうのこうのといったり、全く根拠のない迷信があります。これらの迷信は、人々の毎日の生活に入り混じって、何が真で、何が偽りなのか、少しも分からないようにしてしまいます。
しかしクリスチャンはすべての迷信に対して、はっきりした態度をとり、これらは断固捨て切らねばなりません。また、占者等との関係を持ってはならないのです。このテアテラのイゼベルと、現代の占者とは、皆同じ偽者なのです。彼らがもっともらしく行う占術は、特別な神様から与えられた力でも何でもありません。ただ、金をとって人を惑わすだけのことであります。
すべてを神に任せるクリスチャンは、迷信も占いも全くその必要がなく、むしろそれらは、聖書の信仰の敵であります。
わたしたちは真心をもって神を愛し、主イエス・キリストを救い主と信じて、与えられたこの人生を、真直ぐに神様に従って生きたいと存じます。そこに人生の意義もあり、また暗黒の時には光明を見出すことが出来るのです。
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。尚、本の在庫はありません。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
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スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」