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「ローマ人への手紙」研究 (109)
第62課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
11章28~29節 (21)
「福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについていえば、父祖たちのゆえに、神に愛される者である。神の賜物と召しとは変えられることがない」(11:28~29)。(2)
「選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている」。神の愛に対する敵意は持っており、福音について神の敵であるとして取り扱われている一方、彼らは別の違った意味において、神に愛されている、すなわち、彼らは選びについて言えば、祖父たちのゆえに神に愛されていたのです。福音について神の敵であったそのユダヤ人たちが、なおも神によって注意深く見守られ、集団としてメシヤであるイエスに回心するその日まで守られているのです。
不信仰の中にある者はすべて滅びなくてはなりません。しかし、或る意味で、彼らはその子孫が来るべき日に、メシヤに回心する民族として、神になおも愛されているのです。
「神の賜物と召しとは変わることがないからである」。これは、罪人が救われるためには、その罪を悔い改める必要がないといった意味ではありません。「変わることがない」と訳されている原語の直訳はwithout repentance であるからです。Repentqnceとは「悔い改め」の意味ですが、ここでの意味は「神の側におけるみ心、あるいは目的の変化」ということです。
パウロは神の恵みの目的は変わることがなく、取り消されることがないということを述べているのです。Calling(召し)は、ここではelection(選び)と同じ意味です。神が永遠の生命にお選びになった者は、確実に救われるからです。しかし、もし神がある民を特別な民とするためにお選びになったのならば、彼らはそのような民として残るのです。神の恵みの目的はかわることがないからであります。
集団としてのユダヤ人の選びは、その集団の中の特定の個人の救いを意味するものではありません。神がユダヤ人の大部分が救いに与ったという意味ではありません。神がユダヤ人をご自分の民としてお選びになった時、それは旧約の或る時代のユダヤ人の大部分が救いに与っていると主張する粗雑な謬論が現代も存在しています。もちろん、これは全く根拠がなく間違った論です。
神が或る人たちを民としてお選びになることと、個人を選びお救いになることとは別のことです。何れの場合においても、神はその目的とみ心を変えられることはありません。しかし、私たちは或る民族が選ばれて諸関係や特権に与ることと、個人が選ばれて救いと永遠の生命に与ることとを混同してはならないのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」