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解説 ウエストミンスター信仰告白 (20)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第九章 自由意志について(1)
1 神は、人間の意志にあの自然的自由を賦与された。それは善にも悪にも強制されていないし、また自然の絶対的必然で決定されてもいない(1)。
1 マタイ17:12、ヤコブ1:14、申命30:19
一 人間には被造物ではあっても、他の動物などに見ることのできない尊さが、いろいろ与えられている。その中の一つに「自由意志」または「意志の自由」と呼ばれるものが含まれている。人間のに意志は善または悪のどちらかを欲するのであるが、どちらを選ぶにしろ、何か外からそうさせられるのではなく、自分がそうするのである。
しかも、それは本能的な絶対的必然によるのではない。つまり、自分の中からであるどうにもならない衝動というようなことではない。他者からとか、環境とかに支配されるのではないとともに、内的な力に左右されるのでもなく、どこまでも自分で反対の方向にも意志できるのに、自ら好む方向を決定すると言うのである。
猫が魚に飛びつくのは、内からの本能的な絶対的必然であり、馬が汗を流しつつ荷車を引いて坂を上るのは、御者の強制によるのである。しかし、人間が寝転んで新聞を読むのも、礼拝のために教会へ行くのも本人の自由意志によるのである。
2 人間は無罪状態においては、善であり神に喜ばれることを意志し、行なう自由と力を持っていた(1)。しかし可変的であって、そこから堕落することもありえた(2)。
1 伝道7:29、創世1:26
2 創世2:16,17、創世3:6
二 無罪の状態とは、創造されたままの状態であり、エデンでの状態である。人間が神より与えられたものの中には、不変的賜物と可変的賜物とがあった。可変的とは、自然に変化するという意味ではなく、神との契約に基づいて、試験期間が終了するとともに、より良いもの、または悪しきものへと変化する賜物のことである。自由意志は、このような可変的賜物であったから、現在、わたしたちの持って生まれた自由意志は、アダムが創造された時に与えられていた自由意志と同一のものではない。
3 人間は、罪の状態に堕落することによって、救いを伴うどのような霊的善に対する意志の能力もみな全く失っている(1)。それで生まれながらの人間は、そういう善からは全然離反していて(2)、罪のうちに死んでおり(3)、自らを回心させるとか、回心の方に向かって備えることは、自力ではできない(4)。
1 ロマ5:6、ロマ8:7、ヨハネ15:5
2 ロマ3:10,12
3 エペソ2:1,5、コロサイ2:13
4 ヨハネ6:44,65、エペソ2:2-5、Ⅰコリント2:14、テトス3:3-5
三 現在の人間は、まったく自由意志を持たないと言うのではない。ただ救いをもたらすための善を意志し、実行する力がないと言うのである。それが普通の人間には困難だというのではなく、一人も出来ないと言うのである。完成できないというのでなく、ぜんぜん準備することもできない。ただ、したいと思うのだができないというのではなく、したいとさえ思わない、むしろ、するものかと思うと言うのである。
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この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
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465-0065
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」