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その愛のゆえに
=時々の記=
(94)
12月21日
母のこと「つのぶえジャーナル」に載せてくださり、感謝いたします。母は施設で一度このようなことを言ったことがあります。「私は今はもう何も文章は書けないけれど、もし書ける状態だったら自分史を書きたい」と。その時私はこう答えました。「大丈夫だよ。私が今のお母さんの様子を「つのぶえジャーナル」に送信し、それを載せていただいているんだよ。」すると母はとてもうれしそうに「まあ~嬉しい!有難うね。よろしくね。」と言ってくれました。
ただ一つ、母のもっとも望んでいた献体のことは、主治医は献体できる状態で亡くなられました、と診断書を出してくれたのですが、大学病院の方から、葬儀が終わるのが4時でしたら、お迎えに行くことはできませんと言われ、母の願いが叶わなかったのが唯一悔やまれますが、仕方のないことでした。火葬場の方に急遽お願いして火葬していただきましたが、本当に丁重に扱ってくれました。母の遺体の上にあるのはただ一束の花束だけでした。でもこれが最も母の望んでいた葬儀、最高ではなかったのではないかと思っています。
12月22日
母の生き様が心の中で湧いてきます。何をするにも決して見返りを考えずに、ただイエス様の十字架上でのお苦しみを覚えて、その方に取って最善と思われる励ましをしていました。徹底した牧師夫人として、貧に処する生活を貫き通しました。自分のことはすべてを犠牲にしてでも、信徒の弱っておられる時には、何を差し置いてでも訪問を優先いたしました。訪問伝道の大切さは青山学院神学部でとても厳しく指導されたようです。
なぜ母がお金もないのに青山学院神学部へ行ったのかを施設での会話の折に聞く事ができました。
当時、上田にはメソジスト派の大きな教会があり、その外国人婦人宣教師に熱心に路傍伝道で誘いを受けて、教会の門をくぐったのだそうです。あまり母が熱心に教会の礼拝を捧げ続けているので、その婦人宣教師が「もし、あなたがこの日本で、キリスト教を広める意思があるならば、私はあなたのために生活費、および学費一切を支援いたしましょう」と言っていただいて、勉強をしたかった母は喜んでそのお言葉に甘えて、電電公社での仕事を23歳で辞めて、青山学院神学部へ進んだとのことでした。
入学したのが23歳。それから3年間とてもきびしい神学の先生、渡辺善太先生、音楽では中田羽後先生に指導され、泣きながらの学生時代だったとのことでした。途中で退学する女性も多くある中、母は婦人伝道師としての資格を得て、浜松教会へと派遣されたのでした。
その頃、父も浜松で牧師の卵として奉仕していたようです。母は父との結婚には多くの方から猛反対をされたようです。でも母は父と結婚するのではなく一牧師を支えていくことが必要であるならばと思って、猛反対を押し切って結婚したとのことでした。母28歳、父31歳でした。植村正久先生に司式をしていただいて、先生と父と母3人だけの結婚式だったといっていました。そのようなことを聞いていると母は結婚もしめやかにし、また葬儀も家族だけに見守られてと、母の人生はこのように清楚なものだったことが証されたように思えてなりません。
一方的に送らせていただくメール文を掲載して下さりを感謝しています。ジャーナルが母の自分史になっています。きっと今は天国で、「あら、恥ずかしい。でも私のことを伝えてくれてありがとう」と言ってくれているに違いありません。
12月24日
主人が母のために弔句を作ってくれました。
(斉藤幸子のための弔句)
白寿とて歌ひて待ちしクリスマス。
信仰は宝と言ひし年の暮れ
冬紅葉散りて昇天されにけり。
安らかに昇天されて雪舞ひぬ。
良く似合ふ和服の遺影冬薔薇(そうび)。
天つ国コバルトブルーの冬の空。 馬場路哉
今日、信仰の師のゴダート先生からクリスマスカードを頂きました。母のことをとても心配してくださっておりましたが、先生のお手紙には、「天国で再びお会いできることを確信しています」と書かれていました。
キリスト者の人生は死が最後でなく、天国でお会いできるという希望と慰めがあります。ゴダート先生のお母様は先生がアメリカから日本伝道へ旅立つときに、やはりあなたとはこの世ではもうお会いできないかもしれないけれど、天国で会いましょう、といって励まして見送ってくださったと書かれてありました。本当に強められ、慰められたクリスマスカードでした。
先生は今年84歳になられるそうですが、週に2回お花屋さんで働いておられるとのこと。そして礼拝を守っておられるとのこと。
私もこれから残された人生を悔い改めて、礼拝生活を続け、信仰を持って歩んでいきたいと祈っています。
12月28日
こちらは雪の予報でしたが、辺り一面氷が張っていましたが雪ではなくほっとしています。雪が降るとどこにも出かけられない所に住んでいるものですから、雪には恐怖心を抱いてします。昨夕、四日市教会の藤沢さんから電話が入りました。ジャーナル1月号が届き、母のことを共に悲しんでくださり、母も四日市教会時代をとても懐かしく、楽しかったよねと言っていたことをお伝えいたしました。母に代わって心からの親しいお交わりを感謝するとお伝えできました。でも胸がいっぱいになってしまいました。本当に嬉しい電話でのひとときでした。
麗しき明星望むクリスマス。
信仰の宝遺すとクリスマス。
クリスマス主の隣在を喜べる。
冬紅葉散るや朝日を弾きつつ。
新たなる本借り受けぬ年初め。
見えぬ手にひかれ新たな年迎ふ。 馬場路哉
1月1日
明けましておめでとうございます。
こちらは穏やかな新年を迎えました。息子が郵便局で仕事をているので、一日の朝はいつもより一時間早く出かけました。雪が降っている東北や雪国の方たちはどのような思いで郵便の配達をされているのだろうと重ね合わせて考えてしまいます。
兄や姉には、これからは私が軸になって兄弟のつながりを続けていきたいと思っていますので、その一つとして、ジャーナルに載せていただいている母とのコラムなどをコピーして郵送したり、手渡しに行きます。そのようなことがなければ、母が蒔いてくれた信仰の種が実を結ばないように思えてきます。
兄は葬儀に歌った讃美歌やそのほかにも讃美歌の英語版を聞いてから散歩に出かけているといってくれていましたから、嬉しかったです。姉もやはり讃美歌は大好きで、母の召される前の夜、声が嗄れるぐらい、母の枕辺で讃美歌を一番から300番までうたい続けることができて神様にこのような時間を与えてくださったことに感謝しているといっていました。
特に姉は東京に住んでいたので、召される前の一晩施設の方たちがベッドを横に置いてくださり、母と久しぶりにゆっくり共に過ごすことができて、もう悔いはないと言っていました。でも母がいなくなってしまった伊賀には帰る気持ちになれないと言っていましたから、そんなこと言わないで、節目節目に3人で母のこと父のことなどを話す機会を持とうよ、といって電話を切りました。
1月5日
寒い寒の入りです。今日は今年になって初めての主の日の礼拝でした。母の遺影と一緒に礼拝を捧げました。約3か月ぶりの礼拝でした。母の写真をしっかり抱いてともに賛美し祈りを捧げました。やはり、母との思い出が次々とよみがえってきまして、涙が溢れてきて賛美の声もまったく賛美になりませんでした。
礼拝後に教会の皆さんに、長い間のお祈りと、お交わりをしていただいたことに感謝の言葉を述べました。そして母が召される前に私たちに残した言葉「私はあなたたちに信仰という宝を残しましたよ。」と言い終えると胸がいっぱいになってしまいました。
そして母の愛唱賛美歌は300番でしたが葬儀には405番をうたって見送りました、といい終えますと、牧師夫人がそれでは今から300番を皆さんで賛美いたしましょう、といってくださり、共に賛美してくださり、最後に先生が祈ってくださりました。とても感謝いたしました。
山峡の峯に冬木の並びをり。
瑞々し、女の一生読み初めす。
空へ伸ぶ枝に妙味の冬樹かな。
新年の目標確と定めをり。
新年や紫煙る雑木山。 馬場路哉
寒さがこれからいっそう厳しくなってきます。こちらは犬たちが寒さで弱ってきました。電気毛布を敷いてやっても寒がります。犬たちももう13年目になりますからずいぶん弱ってきました。この子たちとも別れが近づいているかと思うといたたまれなくなってきました。でも仕方のないことですから、受け入れて行かねばと思っています。
1月7日
今朝はこちらは氷点下4度でした。
昨夜もまた高知教会時代の方から、母の死を共に悲しんでくださるお電話が入りました。17歳の時に受洗し、教会に通い続けられたそうです。それから67年、母と信仰の友としてのお交わりをして下さった方です。当時は、3人の子供を抱え、そのうちの一人をおんぶし、一人は母の横に座らせての奏楽の奉仕だったようです。見かねたその方がきっと私を抱っこしてくださり、礼拝が静かにささげられるようにしてくださったというのです。礼拝後母は、とても助かったそうです。
ある時は、どなたかが教会の玄関先に沢山のおもちが置かれてあったそうです。戦後間もないころで皆食することには飢えていた時代にです。それを見た母が、あら・・・、このようにたくさんのお恵みがありますよ。さあ、皆さんご一緒にいただきましょうよ、と言って皆で分け合っておもちを頂いたことが、今も懐かしく思い出されるといっておられました。67年の長きにわたって、導かれ、最後に11月4日にお見舞いに来てくださり、母はその時も神様に心から感謝してお祈りいたしました。私も母が召されてからもこのように多くの方と信仰の分かち合いができますことに感謝しています。
「常に喜びなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい」。これが母の信仰の生き方でした。昨日は盛岡のいとこから電話が入りました。
1月13日
主人も寒さ故なのか疲れなのか、昨日から寝込んでいます。教会の礼拝も捧げることができず、二人で、寝込んでいました。
母の納骨では役員会で協議していただいた結果、全員一致で長年の牧師夫人としての労苦に対して、無料で納骨させていただけることになったと連絡を受けました。心から皆さんの母への思いに感謝いたしました。兄や姉にも連絡してともに感謝いたしました。母もきっととても喜んでいることでしょう。
父の横に納骨してあげたいです。イースターにと願っています。
主は命わが喜びと歌ひ初め。
読み始めや言葉に命あるといふ。
過疎の地の静かさにあり年新た。
干し柿を並ぶる奈良の直売所。
息白くラヂオ体操楽しめり。 馬場路哉
馬場暁美
(上野緑ヶ丘教会員)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」