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小閑記
「あなたがたは、久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言葉の初歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要としている」。
=ヘブル5:12=
信仰は成長するものです。その証拠は、自分の醜さ、弱さ、不完全さを知ることにあります。霊的に幼稚なキリスト者という表現がありますが、それは成長の止まった姿でもあります。この冒頭の聖句の中に「乳」ということばがありますが、人が成長するとともに、乳幼児食から、堅い食物へと移行します。では「もう一度・・・初歩を」という時に、忘れてならないものがあります。それは、幼子のような信仰を失うという意味ではありませんし、最初に神様と共に生きたいとの思いが、それを止めることでもありません。
そうではなく、訓練された信仰の感覚を得る方法は、神様と子供のような交わりに生き続けることに戻るということです。私たちが、イエス様を知り、信じ、受け入れたように、主にあって歩まなければならないという、希望の道・歩みでもあります。
罪を憎めなくなったり、祈りの部屋から遠ざかり、恵みを求める心を失うことに陥っているなら、自分はキリスト者として成長から外れていると思いたいものです。
堅い食物とは、聖書を暗記し、キリスト教の知識を理解するということと同じではありません。そうではなく、信仰の霊的な知恵を得ること、すなわち、善と悪との区別、真実と欺瞞、まじり気のないキリスト教とキリスト教的との分別、これらのものを、今一度取り戻すことの大切さのことです。
愛に根ざして「人知をはるかに越えたキリストの愛を知る」ことは、「乳」を必要とした幼子のような神への信頼が必要なのです。今、キリスト者は神について知る知識は豊かになり、それを知る方法も豊富に備えられています。それ自体、感謝なことです。しかし、それが神様を知り、しかも親しく知ることへと成長するなら、こんな祝福はありません。
そのようなキリストの恵みと知識に、ますます豊かに成長しようではありませんか。
上河原立雄
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」