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今月のことば
「われわれは、ただちに行って、主の恵みを請い、万軍の主に呼び求めよう」。
=ゼカリヤ8:21=
「行く」→「請う」→「呼び求める」・・・。この順番は、大切です私たちはしばしばこの逆をいます。
神様からの祝福をいただくためには、神様が良しとなし給う時と所と仕方で、私たちに祝福である救いのみ言葉を教えます。しかし、私たちの方が先ず、ある特定の場所に行かなければならないということも教えています。しかし、最初はなぜそこに行かなければならないのか良く分からないが、とにかく行って初めてその理由が分かるという場所に行かなければならないのです。
旧約聖書に登場するモーセという人物は「もし神が私に出会おうとされるなら、神はもちろん私がどこにいるかご存知なのだから、私をすでに見出しておられるはずだ」などとは考えず、「モーセは、立ち上がって「行か」なければならなかったのです。モーセは「燃える柴のところに行かなければならなかった」(出エジプト3章)のです。
クリスマスの夜の羊飼いたちは「もし神が私たちに救い主を示そうとされたのであれば」と待つのではなく、「行か」なければ、幼子に出逢うことはできなかったのです。
神様は、常に「行か」なければ、救いの道はないと教えています。神様に出会うために、特定の場所へ行かなければならないのです。み言葉を聞くために、聖餐の恵みに与るために行かなければならないのです。
神様との出会いなくして、「請う」ことも「呼び求める」ことも出来ません。私たちは「求め」ます。しかし得られません。それは何故でしょうか。それは求めているものが「自分の要望・願望」が優先しているからではないでしょうか。神様に傲慢にも請求・要求していないでしょうか。
私たちが「請い、求めるもの」は、具体的です。
「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。また「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」(ルカ10:27)。
この思いを持ち続けたいものです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」