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「ローマ人への手紙」研究 (110)
第63課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
9章1~36節 (22)
「あなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は彼らの不従順によってあわれみを受けたように、彼らも今は不従順になっているが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、彼ら自身も今はあわれみを受けるためなのである」(11:30~31)。
これら二つの節において、パウロは今まで述べてきたことを繰り返し確認して、ユダヤ人の場合と異邦人の場合との間の顕著な類似性を示しています。異邦人たちはかつては不従順であったが、ユダヤ人たちの不従順を通じてあわれみを受けたのです。ユダヤ人たちは今は不従順であるが、異邦人が救われることによって、彼らもあわれみを受けるのです。これは両者の場合、あわれみを受ける機会が同じではないので、正確な類似とは言えません。しかし、その相似性は極めて顕著であると言えます。
「あなたがたが、かつては神に不従順であった」。ギリシャ語の原文はhave
refused belief and obedience です。これは聖書は、信仰とは神への従順の業であり、不信仰は神への不従順であるとしている真理を明らかにしています。人はキリストを信じるように招かれているのみでなく、キリストを信じることを命じられているのであり、信じない者は神の命令に不従順とされるのです。
「すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順の中に閉じ込めたのである」(11:32)。
「この主張は、神はその摂理と恵みの経験によって、異邦人とユダヤ人のすべてが、次々と罪人としての彼らの性格を明らかにし、歴史上において自らを不信仰なものと告白するように導かれたのである。・・・彼らすべてが自身をこのように明らかにするために、神が許容されたのではなく、神が直接に支配し導いて明らかにされたのである。人間を罪にゆだねたことにおいて、神が主権を取られたのは、刑罰的な性格を持つものであり、人間に自由と責任と両立するものであって、神ご自身の聖さとも矛盾するものではない。
神が彼らの罪の原因となられたのではない。神は摂理の業によって彼らの罪が表わされ、それらがあらわにされる様式をも決定されるように計らわれたのである。神が異邦人とユダヤ人を同様に扱ってこられたことを示すことも、パウロの意図の中に入っていると考えられる。ユダヤ人も異邦人も同じ立場に立たされている。
彼らは共に神の主権的な恵みのみが救い出すことが出来る状態の中に沈んでいたのである。すべての者が同じく惨めで望みの無いものであったから、神はユダヤ人も異邦人も共にすべての者の上に、恵みを注ぐことと、キリストの羊の群れの中に入れることとを決定されたのである」(ホッジ)。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」