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解説 ウエストミンスター信仰告白 (21)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校長)
第九章 自由意志について(2)
4 神が罪人を回心させて恵みの状態に移されるとき、神は彼を、罪のもとにある生まれながらの奴隷のきずなから解放し(1)、彼を恵みによってのみ、霊的な善を自由に意志しまた行為することができるようにされる(2)。そうであっても、彼の残存している腐敗のゆえに、彼は完全に、あるいはもっぱら善だけを意志しないで、かえって悪も意志する(3)。
1 コロサイ1:13、ヨハネ8:34,36
2 ピリピ2:13、ロマ6:18,22
3 ガラテヤ5:17、ロマ7:15,18,19,21,23
四 人間が神の恵みによって、有罪の状態から恵みの状態に入れられる時、初めて救いに至る霊的善を意志したり、行ったりする自由が回復される。つまり神の救いの恩恵によってのみ、人は救いに至る善を自由に意志することが可能となる。しかしながら、罪人はたとえ新生しても、地上では肉(罪ある人間性)のゆえに、完全には善のみを意志せず、依然として悪を意志することを止めない者である。ローマ人への手紙7章15節以下にあるように、二つの自分は一つの住宅に同居しつつ、内なる自分は神の律法を喜び、肉なる自分は罪の律法に従う現象をあらわしているのが、これが地上にあるキリスト者の姿である。
5 人間の意志は、ただ栄光の状態においてのみ、善だけを行為するように、完全かつ不変的に解き放される(1)。
1 エペソ4:13、ヘブル12:23、Ⅰヨハネ3:2、ユダ24
五 人間の状態には、エデンと罪と恵みと天国という4つの異なった状態があるように、意志の自由ということにも、4つの別々な状態がある。そのどの状態であっても、意志がまったく自由を持たないと言うのではない。罪の状態にあってもある意味での意志に自由はある。ただ救いに至る善への無能力という制限があるだけで、地上的善や悪への自由はある。一項で定義されたように、人間に意志が与えている限り、それは、無意志の被造物と異なり、他からの強制や本能の必然的衝動で行動するのではない。従って四項で言及した内なる自我が、神の律法に従う場合、恵みによると言ったところで、恵みに強制されたわけではなく、新生した自我の本性の必然的決定と言うわけでもない。どこまでも、自分の意志の自由な選択的行為として、それを行うのである。また、肉なる自分が罪の律法に従ったとしても、罪の律法の強制ではく、肉(罪ある人間)の本性的必然の決定でもなく、やはり自分の自由な意志の行為としてである。もし、それが恵み、または肉の強制や本性的必然的決定と言うならば、罪の責任を神に帰する大きな誤りに陥るばかりでなく、救いの恵みが機械的暴力と見なされることになる。この点に関しては、特に第三章の「神の永遠の聖定について」の一項を参照してほしい。
この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
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465-0065
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
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