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世田谷通信
(126)
猫 草
2月に東京に雪が降ったとき、数十年に一度の大雪だの、観測史上初だのと言われたが、1週間後にもう一度同じぐらい降雪があり、そういう時はなんと報道するのだろう?と思った。数十年に1度のことが、1週間で2度起きるとはどういうこと?・・うーん、確率の話はよくわからない。
「これまでに経験したことのない」とか「観測史上初」という表現にもびっくりしたり、警戒したりするのは最初だけである。やたらと降水量でも積雪でも台風でも気温でも耳にする気がする。なんだか異常も日常となって、危機感が薄れてしまうものだ。警鐘が鳴らされるほどに警戒心は反比例するように薄れていくのだ。なので、報道・情報を流す側も、より刺激の強い形に、どんどん表現を強めていくしかない。それでも言えば言うほど「ああ、またなんか言ってる」ぐらいにしか受け止められず、危機に対して麻痺した感覚になるのが本当は一番危険な状態なんだろう・・と思う。
先日の雪では高校生の長男と部活の友人達も、練習を早めに切り上げればまだ電車はあったものの、夕方すっかり雪深く、首都圏のあちこちで電車が運転見合わせとなってから「あれ、帰れなくね」と気がつき、我が家に泊まりに来ることになった。それも、帰り道に雪合戦、雪だまりに人型、と散々に遊んで、服も髪も靴もベタベタになってのご帰還である。まったく。幼稚園か小学生ですか、君達は。
もちろん子供達はスマホは持っており情報を検索することはできる。こちらも早めに帰るようにとメールを送っている。あれほどに天気の急変が予測され、交通の麻痺が報道され、不要不急の外出はお控えくださいと警鐘が鳴らされても、現実になるまでスルーなのである。
危機を自分の実感として感じ取るのは、きっとケータイのアラーム音でも、強い防災情報の表現の工夫でもなく、ただ本人が「ひやっ」とする、その肌感覚なのだろう。それが本当に深刻な危機でなければいい。そんな風に思う。
*この添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」