[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
今月のことば
二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。・・・それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。
=マタイ10:29~31=
人間は、多くのすずめよりも価値があると言われています。別の箇所では、キリストは、人間は、全世界よりも価値があるとも言われます。「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、何の得になろうか」(マタイ16:28)ともあります。
神様のお言葉によれば、一人の価値は、それほどにも大きいのであると言うのです。この神様の認識と私たちの認識には大きな開き・相違のあることに気付くべきでしょう。戦争、貧富、差別、虐待、人権無視の私たちの社会の現実にあって、このみ言葉は、何を私たちに神様は厳しく問いかけるのでしょうか。他人事と目をそらし、無関心な私たちに、神様は厳しくキリスト者と教会に問うているのです。
このような神の問いかけを、自らの欲望の満足のために無視し、浪費し、自分自身を見失っているのです。預言者は言います。「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。・・・。草は枯れ、花はしぼむ」(イザヤ40:6~7)。
こころを飾ることよりも、外側を飾るために飽くなき努力を注ぎ、お金を注ぎ込むのが私たちです。
もう一度、こころを傾けて、神のみ言葉に聞こうではありませんか。私たち一人一人の救いのために、神は何を犠牲にされたのでしょうか。十字架上のイエスは神の子のみ子でした。滅びの肉と骨として捨て置かれても致し方のない私たち一人一人に神は、愛と憐れみと救いと罪の赦しと、それ以上に永遠の命を得させるために、支払われた代金は、全世界の富でも賄いきれない代償を、ただ、神の真実と愛のゆえに支払われた金額は、神としてのみ子の命でした。
私たち罪人にそれだけの値打ちがあるのでしょうか。全くありません。罪の償いのために私たちは何を持って贖うことが出来るのでしょうか。出来ません。不可能です。
そのような私たちのために、差し出された主イエス・キリストの救いのみ手を、今一度、確りと受け止めようではありませんか。み子の命をもって贖いだされた命は、本当に貴いのです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」