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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
(2)
さんびか物語・・1
(広く愛唱されている50曲)
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌6番
われら主をたたえまし
<神様のみ言葉>
「主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます」。
~詩篇145編8節~
この讃美歌は礼拝の讃美として歌われているものです。讃美歌6番“われら主をたたえまし”の原作者ニコル・グリーブにつきましては、彼が1868年に生まれたことと、イギリスの讃美歌作者であったことの他、何もわかっていません。グリーブが書きましたこの歌は、詩篇145篇に基づいて作られた詩篇歌で、今も、イギリス国教会の讃美歌集に掲載されている一つであります。この素晴らしい讃美の歌が、日本語にも訳されていますことは、本当に喜ばしいことと存じます。
讃美歌6番の曲は、5番の曲と同様に、非常に古いものです。その原旋律は、テオドール・ベザの訳になる詩篇124編の曲として、1551年に出版されました、ジュネーヴの詩篇歌(Pseaumes de Daid)に収録されていました。
この曲は、その後、イギリスで、1562年に出版されました、“Whole Booke of Psalmes”に収められていたのです。そしてイギリスでは詩篇124編の曲として普及していたもので、そのために“Old124TH”という曲名が付されたのです。この曲は、1954年版の讃美歌でが、6番の他に226番の「地に住める神の子」の曲としても使われ、唄われています。
<6>
1 われら主をたたえまし、 2 世は世へとうたいつぎ
きよき御名あがめばや、 よろこびとおそれもて
くる日ごとほめうたわん、 主のくしきわざをつげ、
神にまし王にます、 いつくしみ知れるもの
主のみいつたくいなし。 みさかえをほめたたう。
3 みめぐみはかぎりなく
主にたよる子らにあり。
みいかりをしのびつつ
あわれみをたれたもう
主を愛し、主に仕えん。
以上の美しい言葉と詩篇145編を比較しつつ、学んでまいりますと、非常に教えられるところがありますので、ここで先ず讃美歌6番と関連のある詩篇145編の一部分を引用させていただきます。
1 私の神、王よ。私はあなたをあがめます。あなたの御名を世々限りなく、ほめたたえます。 3 主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さを測り知ることができません。 4 代は代へと、あなたのみわざをほめ歌い、あなたの大能のわざを告げ知らせるでしょう。 5 私は栄光輝くあなたの主権と、あなたの奇しいわざに思いを潜めます。 6 人々はあなたの恐ろしいみわざと力を語り、私はあなたの偉大さを述べるでしょう。 7 人々はあなたの豊かないつくしみの思い出を熱心に語り、あなたの義を高らかに歌うでしょう。 8 主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。 9 主はすべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。 18 主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられます。 20 すべて主を愛する者は主に守られる。しかし、悪者はすべて滅ぼされる。
まずここで教えられますことは、作者グリーブの歌詞にせよ、詩篇145編の詩人ダビデにせよ、どちらの歌も、その中心となっている点は、まことの生ける神様をほめたたえ、讃美することにあるといえましょう。
人の主な目的が自分をえらくするとか、お金をたくさん貯えるためではなく、「・・・神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである」と、ウエストミンスター小教理問答書の問1で教えています。私たちは、みな、まことの神様の聖きみ名を来る日ごとに、ほめ歌うために、造られたものであります。
「神にまし、王にます主」を知り、主をほめたたえるのでなければ、私たちは人間としての主なる目的から、まとをはずした生活をしているのです。この讃美の歌は私たち人間に正しいあり方をはっきりと教えてくださっている立派な模範です。
次に学びたいことは、私たちが喜びと畏れの心をもって、主なる神様のくすしきみ業を、人々に告げなければならないということです。
2節に、「世は世へとうたいつぎ、よろこびとおそれもて、主のくしきわざをつげ、いつくしみ知れるもの、みさかえをほめたたう」とあります。一方、詩篇の4節では、「代は代へと、あなた(主な苦神様)のみわざをほめ歌い、あなたの大能のわざを告げ知らせるでしょう」とございます。
しかし、私たちが、主のみ業を告げる前にまず主を知り、主を信じ、主を愛し、主を私たち自身の王としてお迎えしなければなりません。あなたは、主を知り、信じておられますか?
聖書の1ページ1ぺージをお開きになって祈りと謙遜の心をもって、み言葉を学びますなら、神ご自身がみ言葉の意味を明らかにしてくださいます。そればかりでなく、あなたが求めておられる正しい信仰を、あなたの心に与え、あなたの心の中に信仰の光をともして下さいます。これこそ神様のくすしきみ業の一つではないでしょうか。そして、主を知り、信じますなら、主のみ栄えをほめたたえつつ、あなたの心にある喜びと平安を、他の人々に宣べ伝えずにおれなくされるのです。
今一つお考えいただきたいことがあります。それは、一つの理解しにくい逆説的なことがらです。すなわち、豊かなお恵みと、いつくしみを、おそそぎ下さる神様はまた、その上、義と審きの神様でもあるということです。
讃美歌6番の3節で、作者は「みめぐみはかぎりなく、主にたよる子らにあり。みいかりをしのびつつ、あわれみをたれたもう、・・・」と、ございます。詩篇145編8節では、「主は情け深くあわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます」と、ダビデは歌っています。
神様は、何故、お怒りになるのでしょうか。それは、人間はアダムの時から主に背き、主を求めようとせず、尋ねようともしなかったからです。人間が、神様に反逆して以来のことなのです。また、人間は勝手に偶像を造り、それを神として拝み人の思いのままにいろいろな偽りの宗教を作り出し、神様に徹底的に背き続けたからなのです。それにもかかわらず、まことの生ける神様は、私たち人間の罪を贖い、赦しを与えるために、独り子のイエス・キリストを私たち罪人の身代わりとして十字架につけるために、この罪の世におつかわしになりました。そして、十字架につけ、十字架上に死にたもうたキリストの貴いいけにえによって、私たちの罪の赦しと、永遠のいのちとを、お与え下さっているのであります。
しかも、主は忍耐に忍耐をお重ねになって、私たちが父なる神様のみもとに立ち返る日を待ち続けておられます。まことに、「みいかりをしのびつつ、あわれみをたれたもう」神様であられます。
このように、神様は弱く、何の価値もない、罪と汚れとに覆われた私たちを愛し、滅びの穴から救い出して下さるのです。私たちは、そのような愛に富みたもう神様に感謝し、応答しなければなりません。私たちひとりひとりが、心から主を愛し、主に仕える決心を新たにしようではありませんか。
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この掲載には「つのぶえ社」の許可を得ています。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」