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解説 ウエストミンスター信仰告白 (23)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第十章 有効召命について(2)
3 幼少のうちに死に選ばれた幼児は、いつでも、どこでも、どのようにでも、自らよしとされるままに働かれるみたまを通して(1)、キリストにより、再生させられ、救われる(2)。み言葉の宣教で外的に召されることのできない他の選ばれた人もみな、同様である(3)。
1 ヨハネ3:8
2 ルカ18:15,16、行伝2:38,39、ヨハネ3:3,5、Ⅰヨハネ5:12、ロマ8:9比較(*)
*ルカ18:15,16と行伝2:38,39とヨハネ3:3,5とⅠヨハネ5:12とロマ8:9を比較。
3 Ⅰヨハネ5:12、行伝4:12
三 イエスの誕生のとき、ベツレヘムの幼児が多数ヘロデ王の命令により殺された事実に対し何か割り切れない思いを抱くのは人情である。信者の愛する子供が幼くして死ぬとき、果たして、この子供は天国に入れるのかと心配する。そこで、幼少のうちに死んだ者に対するいろいろな見解がある。
1・・幼少のうちに死んだ者は全部救われる。
2・・受洗している者はみな救われる。
3・・福音を聞いていないからみな滅びる。
4・・信者の子供は救われる。
しかし、わたしたちはやはり選民のみが救われるという点を主張し、同時に、神の救いにかかわる絶対主権的自由に基づいて、外的召命を絶対的条件とは見ないのである。
4 選ばれていない他の者たちは、たとえみ言葉の宣教で召され(1)、みたまの一般的な活動に浴しようとも(2)、決して真実にはキリストにこないし、それゆえ救われることができない(3)。とりわけ、キリスト教を告白しない人々は、たとえどれほど彼らが自然の光と自ら告白するその宗教の律法に従って、自分の生活を築きあげることに勤勉であるとしても、これ以外のどのような方法でも、救われることはできない(4)。また彼らが救われると断言し主張することは、きわめて有害で憎むべきことである(5)。
1 マタイ22:14
2 マタイ7:22、マタイ13:20,21、ヘブル6:4,5
3 ヨハネ6:64-66、 ヨハネ8:24
4 行伝4:12、ヨハネ14:6、エペソ2:12、ヨハネ4:22、ヨハネ17:3
5 Ⅱヨハネ9,11(*)、Ⅰコリント16:22、ガラテヤ1:6-8
*Ⅱヨハネ9-11が正しい。
四 前項とは反対に「福音と聖霊の恵みによらなければ救いに至る道」はないという厳しい断定は、予定論の一番人気のない要素であるが、苛立たずに本文を注意し冷静に読んでよく反省してもらいたい。
「選ばれていない他の者たち」とは誰を指すのであろうか。聖書には確かに名指しいて「放棄された者」のあることがあちこちに出ている。たとえば、テモテへの手紙第二・3章8節に「また、こういう人々は、ちょうどヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、真理に逆らうのです。彼らは知性の腐った、信仰の失格者です」とある。
イエスを裏切ったイスカリオテのユダについては疑問の余地がない。しかし現実に、誰がユダであってペテロではないと、わたしたちに断定する資格があるだろうか。七度を七十倍にして赦して下さる恵みの父を信じることが肝要である。
<結び>
第八章で贖罪論を終えたので、ここから、救拯論(聖霊論)に入った。自力救済思想の否定、恩恵主義の徹底のために、まず自由意志の堕落によって生じた変化を明らかにしたいのである。ルーターはエラスムスとの論争で、「奴隷的意志」を書いた(ウオーフィルドの「宗教改革の神学」という論文に詳述されている)が、意志が自由を喪失したということは、少し誤解を招く表現であろう。むしろ。救いは、ただ聖霊の主体的自由な活動のみによるという主張と、その恩恵活動は罪人にとって、外部からの強制とか、内的必然というような、宿命論や決定論とは異なるもので、どこまでも自由の回復という方式で与えられているという告白である。
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この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500
465-0065
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」