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小閑記
わたしに何をしてほしいのか。
=ルカ8:41=
イエス様は願っている人に、この質問を向けられました。必要とは思えぬ質問です。「わたしをあわれんでください」と願いにこられている時、何をその人が願っているかイエス様はご存知だというふうに考えられます。
しかし、祈っている私たちのところに、イエス様が来られて、「わたしに何をしてほしいのか」とお聞きになると仮定したら、私たちはいったい何と答えるでしょうか。
私たちは、時の許す限り、度々祈ります。「主よ、お助けください」と祈る時、イエス様に「何を、どうして、だれのために」と問われた時、正確に何を望んでいるかを考え、求めているかを自問させられます。考えの浅い思いで、その場しのぎの祈りをしてはいないでしょうか。「祈ると祈り続ける」とでは大きな違いがあるのではないでしょうか。イエス様は、このような祈りの姿勢を問うているのです。
「また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らはことば数が多ければ、聞き入れられるものと思っている」という御言葉があります。
私たちが祈りによって神のみ前に出る時、自分自身に尋ねてみましよう。
私は今、何を望むのか。実際に何が必要なのかと神様に申し上げ、それを忍耐と希望を持つ、待てるのがキリスト者の祈りです。私たちの祈りの言葉は、信仰の姿・姿勢でもあります。
祈りが貧しく、小さく、自己中心の祈りに熱心になっているなら、もう一度「わたしに何をしてほしいのか」というイエス様の問いかけを、聞きましょう。イエス様の問いかけの真の意味、御心は何であるかをたずね求めることは、信仰の糧になります。心はむしろ真の願いへと導くでしょう。
「あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば」(エレミヤ29:13)。
主よ。祈ることを教えてください。
上河原立雄
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」