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「ローマ人への手紙」研究 (113)
第64課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
9章1~36節 (25)
「神は無限に偉大かつ善なる方であるばかりでなく、人間の心には測り知ることのできない方である」。
「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は、そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい」。(11:30)(2)
無限者なる神という教えは、人間の心によって分析解明され得ないからという理由で、人々はこれを拒否します。それは常に私たちを迷わせるものです。私たちはその周囲を円で囲んで、それを理解したということは出来ません。自分が十分に理解し分析し得るものでない限り、如何なる神をも礼拝しないという人々は、決して聖書の神を礼拝しようとはしないのです。
実のところ、彼らは自分の心を神の代わりに礼拝しているのです。木や金で造った偶像を礼拝した異邦人たちと同じく、彼らも偶像礼拝者なのです。真の神は人々の心を迷わせ悩ますものです。しかし、その理由は、神は真の神であるからなのです。もし私たちが神を理解し尽したとすれば、その神はもはや神ではなく、私たちももはや被造物ではなくなるのです。
「私たちは神を崇め、憧れることができるだけである。神を理解し尽すことなど決してできないのだ。そしてそれは当然のことなのである。私たちによって理解され尽くすものは、有限な存在である。充分に把握されるものは、もはや神ではない。神が知識と祝福の限界なき無限の根源であるのは、神が存在において無限であり、その裁きと道において極め難く、また測り難い神であられるからである」(ホッジ)。
私たちが銘記すべきことは、私たちのキリスト教信仰は神秘に終わるということです。私たちが神の啓示によって所有し得る小さな知識は、やがて神秘との境界まで私たちを導くでしょう。そして、その境界に立って、私たちは、ホッジのように、「私たちは神を崇め、憧れることができるだけである」と言うのであって、決して理解することなどできないのです。
キリスト教は18世紀の合理主義の侵略によって、手痛い打撃を受けてきました。合理主義は現今にもその結果を及ぼしています。18世紀の合理主義の目標と狙いは、全ての実存の完全な理解でありました。この故に人間の心によって完全に理解され、解釈されることができないキリスト教信仰におけるすべての事柄は拒絶されたのです。
合理主義の中には、聖書の神の拒絶と人間の心のイメージで作られた偽りの神とが含まれているのです。この理性の宗教という偽りの宗教に対して、私たちは聖書の畏敬すべき、測り知ることのできない、神秘の神、すなわち、生ける真の神を信じるのです。
神の「さばき」と「道」とは微妙な区別があります。ここにあるものは神の裁き、神の計画、聖定を意味しています。これらのことは「窮めがたい」と言われています。すなわち、人間の研究や調査の及ぶところではないというのです。それらは神の神秘の領域に属するものであって、人間は近づくことができず、調べることができないのです。
神の道(ways)とは、神の御計画(聖定)が創造と摂理の業において実行に移されるときの方法を指しています。これは「測りがたい」と言われています。ギリシャ語の「足あと」と言う語の形容詞形です。神は創造と摂理の業において、その計画を実行に移されるのであるが、その時の方法や過程は、人間の知識や調査研究を越えたものです。私たちは神のなされる方法について、ごく僅かの限定された知識しか持ち得ないのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」