[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・18
「問16」 前回の話では、「自由とは神に従うことである」とありましたが、それは何か窮屈な、自分が縛られることのように感じられますがどうでしょうか。クリスチャンになることも、何かに拘束されるような気がします。例えば日曜日には礼拝に出席しなくてはならないとか。
「答」 日本では、お盆休みになると、多くの人は親元へ帰ります。親に自分や家族の元気な顔を見せて安心して貰いたい、ということが帰郷の一つの理由でしょう。特に親が最近少し弱ってきているなど聞こうものなら、多少のことは差し置いてもそうするでしょう。
またその親が肺や気管支を患っているとしたら、好きな煙草も吸うことを差し控えるでしょう。そういうことはみな自発的な行為です。もし、そういう行為を眺めていて、「親がいるってことは大変なことだなあ」と思う人がいたとすれば、それは親の子に対する愛や、子の親に対する敬愛の情というものがよく分かっていないからではないでしょうか。
また、もし心から尊敬する人がいたなら、その人に喜んでもらえることは進んでするでしょうし、逆にその人が好まないことはしないように努めるでしょう。そのいずれも指示されてのことでなく、自由を拘束されているとは思っていないでしょう。
むしろ、場合によっては、禁欲することも辞さないでしょう。クリスチャン生活が、何かそうではない人に比べて窮屈そうに見えることがあったとしても、それは、当人たちにとっては、何でもなく、むしろ当然のこととして生きているのであります。キリストによって神との関係に生かされている喜びからであることを知っていただきたいものです。
以上のことよりももっと大切なことは、「人間は本当に自由な存在であるか」という問題です。「ある人は『手を上に上げろ』『足を前に出せ』『目をつぶれ』と自分に命令すれば、体はそのように動く。しかし、心は命令通りに動かない。しなければならないと思っていることも、そのようには出来ない。自分はなんと不自由な人間なのだろう」と嘆いています。
「善はなすべし、悪はなすべからず」と知っていても、そのようには生きられないのが人間の事実だと思います。自分の思うままに生きて、それを自由だと思っている人は、自分の思うまま以外のことは決して出来ない不自由さを知らない人です。自分を超えた存在に出会っていなければそうです。
キリストを知り、それによって神を知る時、この神を知らされ、その導きに従うところに、自分の見当違いとか限界を超えた命に生かされる道がここにあることを、見出して生き始めるのでありまして、これがクリスチャンが喜びをもって得ている自由というものであります。
マザーテレサのような人は、神に聞き従うことによって、人を愛する自由を得た人であった、と言うことが出来ます。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
6月放送予定
1日 沖崎 学(金城学院高等学校宗教主事)
8日 沖崎 学(金城学院高等学校宗教主事)
15日 沖崎 学(金城学院高等学校宗教主事)
22日 後藤田典子(金城学院中学校宗教主事)
29日 後藤田典子(金城学院中学校宗教主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
=お知らせ=
サッカーWカップの試合の放送ため、時に放送休止の場合がありますが、その時は、順次繰り下げ放送で対応いたしますのでご了承ください。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」