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小閑記
あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。
=イザヤ55:6=
恵みのときの続く限り、主にお会いすることが出来ます。キリストによって、神がお開き下さった扉は、全ての者に開かれております。この扉は、神以外誰も開けることの出来ない扉でもありますし、誰も閉じることも出来ない扉でもあります。主が死と黄泉の国の鍵を持ち、主のみが開き、そして閉じられるのです。
しかし、主はまた、扉を閉じる時が来ると語られました。そこで「主にお会いすることのできるうちに」救われたいと願い求める者は、主を尋ねよ、と言われるのです。誰も自分の悔い改めの時を決めることは出来ません。天国に行きたいと願う者は、受け入れられる時を手にしなければなりません。
もし、神が、私たちを先ずお求めにならないならば、誰一人として神を尋ねる考えを持つことは出来ません。もし、神の霊が私たちをゆさぶらない限り、私たちは、罪のうちを黙して歩かなければならないでしょう。ただ主が語られる時、もし私たちが聞こうとすれば、初めて扉は開かれます。
私たちは、心から、本当に救われて神のみ国へ行くことを望んでいるでしょうか。そう願うなら、自分の悔い改める時を決めている限り、それは、悲しいことですが、サタンの騙し事に乗せられているのです。このような状態では、決して救いの恵みの道を歩むことは出来ません。私たちが主を尋ねることが出来るのは、主が私たちを尋ねておられる時のみです。
それが今日、今であるとするならば、何と幸いなことでしょう。同時に、悲しいことですが、信仰が与えられているにもかかわらず、「お会いすることのできるうちに」を忘れてしまうことです。もし、神の恵みから後退したり、軽んじたりするなら、私たちの扉は閉じられる危険が潜んでいることに気付き、信仰の心、霊的まなざしを開いていなければなりません。それが信仰生活の道なのですから・・・。
上河原立雄
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」