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「ローマ人への手紙」研究 (114)
第65課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
9章1~36節 (26)
「神は完全に、また絶対的に人間から自立しておられる」。
(11:34~35)
「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。
11:34~35(1)
これらの2節の中で、34節は、そのご計画と目的における、神の絶対的独立性または自立性を教えています。主の計画とは神の計画であり、如何なる意味においても、被造物の中の何者にも依拠するものでは断じてありません。「だれが主の心を知っているか。だれが主の計画にあずかったか」という問いは、勿論、反語であって、「誰もない」という答えを含んでいます。
従って、この節の教えは、神はその計画と目的において、絶対的に自立自存であり、そのどの点においても被造物よって制限されたり、限界づけられたりすることは決してないことです。
これが神の主権の教理なのです。この教理は聖書の中においては、「神はそれらをよしとされた」、「主はそれをよしとされた」(It pleased God)とか、「神の御旨のよしとされることに従い」(According to the good pleasure of his Will)というような言葉で表現されています。ウ信仰告白や小教理問答書にも、同じような表現で繰り返し神の主権が述べられています。神の御計画と目的において、神は絶対的な自立性と至高の権威を所有しておられるのです。
現代において、神の主権性と自立性という教理は、強く反対されています。第一に、有限なる神を信じる自由主義神学者や近代主義神学者たちによって反対されます。無限者なる神のみが、その計画において自立的ありうるのです。第二に、神は人間を創造されたときご自身を制限されたので、創造後はもはや至高の存在でも自立的存在でもないのだと主張する人たちによって反対されます。
これらの人々は公然と、神は被造物の自由意思によって限定され束縛されると主張します。彼らは「神の御手は縛らている」とか、「神はあなたを救おうとされているが、あなたが決心をしないかぎり、何ともなすすべがないのだ」とか、「神にチャンスを与えよ」などと平然と言います。人間が先ず最初に行動を起こすのです。
「神は御自身なしうることは全てしてしまわれた。今やあなたが決心するときである」などと言う大衆伝道者がいます。これらの言葉はすべて生まれながらの人間に迎合することです。その背後には神の自立性と主権性の否認があり、神の栄光と尊厳が傷つけられているのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」