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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・19
問17 キリスト教でいう自由と一般的にいう自由とは違うように思いますがどうでしょうか。
答 自由というのは、何か拘束するものがあることが前提になっています。その拘束するものはさまざまですが、それが何であるにしても、人間が考えている領域においてのことです。これに対して、キリスト教の場合はイエス・キリストによって示された神との関係においてのことです。これはキリスト教に限りません。宗教が人間を超えたものとの関係で人間を問題にしている限り、どの宗教においてもことは同じです。
アダムとエバの話はご存知でしょう。禁断の木の実を取って食べたのでエデンの園という楽園を追い出されてしまった、という話です。あの場合「園のどの木からでも取って食べてよろしいが、園の中央にある木からは取って食べてはならない」という命令が与えられたのは神様でした。神様がいらっしゃるということが前提としてあったのです。
ところが、この二人は、その命令を無視し、この命令に背いて、禁断を犯しました。それは、神様に従うよりも、禁断の木の実を取って食べたいという欲望の方が勝ったからです。この自分たちの欲望が勝ったということで、これは実質的な神喪失です。神様の戒めとしてあったものを自分たちで破ってしまったのですから、自分たちで神様を無きに等しいものにしてしまったのです。
こうして「失楽園」という事態になりました。「あらゆることをやってみたいし、出来たらいいがなあ」という思いは誰の中にもあります。そして、それが出来ることをあらゆることについての自由だと考えます。しかし、人間が「出来ることは何でもやれる」と思っている自由というものは、自分を知らなさ過ぎます。その証拠に、何でも出来ることで高慢になったり、したいと思っていることが出来ないことで不満を覚えたりします。ことの判断をする主人公が自分でしかないからです。
「それくらいのことでいい気になっている自分」や「そんなことで不満になっている自分」を冷静に客観的に眺めることが出来ることが、自分に自由であるということです。そして、「よし、もっと本気で取り組むことに取り掛かろう」となったら、今までの自分を超える生き方へと変わることになります。
その「本気で取り組め」という声は自分で自分にかけられるものではありません。それは、自分を超えたものからです。その自分を超えたものを消すなら、人間は自分の位置を見失います。アダムとエバが禁断を犯して結果はそれです。神が厳としておられ、神の戒めが聞こえているところに人間の自由が確保され、楽園にいることが保証されるのです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
7月放送予定
6日 楠本 茂貴 (名古屋高等学校・中学校聖書科主任)
13日 大藪 博康 (名古屋高等学校・中学校宗教部長)
20日 高見伊三郎 (名古屋学院大学宗教部長)
27日 葛井 義憲 (名古屋学院大学法学部教授)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
=お知らせ=
サッカーWカップの試合の放送ため、時に放送休止の場合がありますが、その時は、順次繰り下げ放送で対応いたしますのでご了承ください。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」