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さんびか物語 (4)
(広く愛唱されている50曲)・・・3
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌39番
日くれて 四方はくらく
<神様のみ言葉>
「それで、彼らが『いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりましすし、日もおおかた傾きましたから。』と言って無理に願ったので、イエスは彼等といっしょに泊まるために中にはいられた」。
=ルカの福音書24章29=
讃美歌39番“日くれて四方(よも)はくらく”は英語讃美歌中、最もよく歌われる夕の歌であるばかりでなく、チャールズ・ウェスレーの讃美歌273番の“わがたましいを愛するイエスよ”についで英米でも広く愛されているものの一つでございます。
この素晴らしい夕べの歌の原作者は、ヘンリ・フランシス・ライトで、イギリスの陸軍士官の子として1793年6月1日、スコットランドのケルソの近くに生まれました。彼は小さい時に孤児になり貧乏と戦いながら、アイルランドのダブリンのトリニテー大学で教育を受けました。
一時医学を志していましたが、生まれつき体が弱かったために、それをあきらめ神学に転じ、21歳で国教会の聖職となりました。そうして、アイルランドの各地の教会でしばらくの間、牧会を続けました。ちょうどその頃、ライトの同労者の一人が急に重い病気に罹りました。牧師でありながらも、死が近づくにつれて、自分の心の不安と赦されていないのではないかという、自分の罪の重荷に耐えられなくなったのです。それで友人のライトを呼び、神様よりの罪の赦しの道を教えられたいと、熱心に願ったそうです。
この友人の真剣な願いをうけたライト自身この出来事によって、自分の信仰をかえり見て、その信仰の弱さを始めて認識させられ、友人と二人で一生懸命に聖書を学び、熱心に祈りました。この熱心な求道と神様の愛によって、主イエス・キリストの贖いによる罪の赦しの確かさを、恵みによって痛感させられました。
この出来事はライトの信仰生活の大きな転換期となったといえましょう。それと、よき助け手としての妻の与えられたことです。彼女は牧師の娘でありましたが、たまたまお金持ちでもありましたので、ライトは生まれて初めて金銭的な苦労からも解放され十分に才能を発揮することが出来るようになったことと思います。
1823年、ライト一家はイギリスのデブンシャーに移り、そこの漁師たちのために24年間牧師として出来得る限りの働きに没頭しました。彼は牧師としての働きのほかに、讃美歌を81曲ほど作っていますが、その中の一つが讃美歌336番の“主イエスよ、十字架を”であります。また、いろいろの本を出版したり、生徒が800名ほどの教会学校を建てたり、70名ほどの教会学校の教師を養成したりと、広く活動いたしました。
ライトは喘息を患っていまして、結核に近い病にも罹っていたようですが、1844年まではどうにかその任務をはたしてまいりました。しかし、この期を境に寒い冬の数ヶ月を、暖かいフランスの南の方で静かに過ごさなければならないようになりました。
彼はいつも夏には懐かしいデブンシャーに戻り伝道に励んでいましたが、1847年9月、静養のためニースに戻ることもなくそこで亡くなりました。彼はニースのイギリス人墓地に葬られました。
讃美歌39番については、二つの節があります。その一つは、1847年、彼がニースに旅立つ前の最後の日曜日の夕べに、作者が庭に出て海岸まで降りて、そこから日没をじっと眺めながらこの作品をメモにし、書斎に戻って仕上げてから、この歌を親戚の一人に渡したそうです。
いま一つの説は、ライトがまだ若い牧師であった1820年に、瀕死の老人のために書いたものであるということです。いずれにいたしましても、私たちにとって大切な点は、この歌の中心的なメッセージが何であるかということであると思います。
私は、この讃美歌が一日の終わりを告げる夕べを歌っていることよりも、人生の夕べをテーマにして、ライト自身が死を心に感じつつ書き上げた、彼自身の素晴らしい信仰の告白であったと思います。
讃美歌39番の作曲者ですが、イギリス人のウィリアム・ヘンリー・モンクで、1823年3月16日にロンドンで生まれ、1889年3月1日ロンドンで召されました。モンクはキングス・カレッジの聖歌隊長、オルガニスト、声楽教授をつとめながら賛美歌の編集や出版に活躍し、英国教会音楽の発展に大いに貢献いたしました。
このメロデー(EVENTIDE)の作曲は、ある日非常に悲しい事件が起こったとき、モンク夫妻が外に出て散歩していた時、二人で地平線に沈み行く輝かしい夕日を眺めていたときに浮かんできた曲であったと言われています。
この曲は、日本ばかりでなく、広く英米の人々にも愛唱されている傑作の一つと言えましょう。
<39>
1 日くれて四方はくらく わがたまはいとさびし
よるべなき身のたよる 主よ、ともに宿りませ。
2 人生のくれちかずき 世のいろかうつりゆく
とこしえにかわらざる 主よ、ともに宿りませ。
3 世の闇おしせまりて いざないの声しげし
時のまも去りまさで 主よ、ともに宿りませ。
4 死の刺いずこにある 主のちかくましまさば
われ勝ちてあまりあらん 主よ、ともに宿りませ。
5 十字架のくしきひかり 閉ずる目にあおがしめ
みさかえにさむるまで 主よ、ともに宿りませ。
この讃美歌のテーマは、各節の4行目にある“主よ、ともに宿りませ”であります。もちろん背景にあるのは、冒頭のみ言葉であるのは当然です。
エマオという村に行く二人の弟子は、目がさえぎられていて、彼らとともに道を歩いておられたのが主イエスご自身であることは分かりませんでした。イエス様は彼らの願いに従って家に入り、食卓に着きパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された時に、初めてイエス様であることがわかったと、ルカの福音書24章13節~31節に記されています。
この二人の弟子と同じように世の多くの人々は、霊的には盲人ではないでしょうか。
讃美歌39番の1節では、人の心の寂しさ、孤独、身を寄せる所のない者のやどり木、支えになって下さいと求めている祈りのように思えます。
2節では、この世の生滅流転と人生の終わりという有限に対して、永遠に変わらざる主がともにいたもうて、変わらざる永遠のいのちへと導き給えという、人類の切なる願いの歌であります。
3節の原作は、日本語訳より直接的で明確です。即ち、神様のご臨在はいつも必要であり、神様の恵みがなければ、到底、悪魔の力には打ち勝ち得ないと歌っています。また、神様の他に誰が何が私たちの正しい案内人や助け手に成り得ようか、と言っています。曇りがちの時にも、日が照り輝いている時にも(順境にも逆境にも)私たちとともに宿ってください、となっています。
4節は、申すまでもなく、使徒パウロの有名な言葉に基づいています。それはコリント人への手紙第一、15章55節~57節であります。
「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」。
“主イエス・キリストの十字架の贖いこそほむべきかな”であります。
5節でライトは、主イエス・キリストの十字架の贖いによる、永遠のいのちの保証とそれへの確信を高らかに歌っています。
“み栄えに、眠れる信仰が目覚めるまで、主よ、ともに宿りませ”と歌っています。この確信と希望に満ちた言葉は、昔も今も多くの人々の励ましとなり力となってきました。
キリストの十字架と復活の上にある信仰、これこそがライトの私たちに対する素晴らしいメッセージと言えます。
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この掲載には「つのぶえ社」の許可を得ています。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」