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解説 ウエストミンスター信仰告白 (25)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第11章 義認について・・2
4 神は、永遠の昔から、選ばれた者すべてを義とすることを聖定された1)。またキリストは、時満ちて、彼らの罪のために死に、彼らが義とされるためによみがえられた(2)。とはいえ、聖霊が時至って実際にキリストを彼らに適用されるまでは、彼らは義とされない(3)。
1 ガラテヤ3:8、Ⅰペトロ1:2,19,20、ロマ8:30
2 ガラテヤ4:4、Ⅰテモテ2:6、ロマ4:25
3 コロサイ1:21,22、ガラテヤ2:16、テトス3:4-7(*)
*テトス3:3-7が正しい。
四 これは義認の時期をはっきりさせているところである。み旨のうちにあって、わたしたちは永遠よりすでに義とされているとも言える。また、キリストが客観的にわたしたちの罪のための完全な償いをなされたのは、すでに二千年前のことである。しかし、わたしたちが義とされたのは、召された時、信仰が与えられた時なのであると考えなければならない。
5 神は、義とされる者たちの罪をゆるしつづけられる(1)。それで彼らは義とされた状態から決して落ちることはできないのではあるが(2)、それでも彼らは自分の罪によって、神の父としての不興をこうむり、彼らが自らへりくだって、自分の罪を告白し、ゆるしを乞い、自分の信仰と悔改めをもう一度新しくするまでは、神のみ顔の光をとり戻せないこともありうる(3)。
1 マタイ6:12、Ⅰヨハネ1:7,9、Ⅰヨハネ2:1,2
2 ルカ22:32、ヨハネ10:28、ヘブル10:14
3 詩89:31-33(32-34)、詩51:7-12(9-14)、詩32:5、マタイ26:75、Ⅰコリント11:30,32、ルカ1:20
五 義認は、このように主観的に信仰が与えられることと、深く関係しているから、そして信仰とは、神の聖霊の働きであるから、一度与えられた義認は、一回で完了するのであるけれども、信仰が主観的に弱まることはたびたびあり、それに応じて、義認の自覚が弱まり、神との平和と喜びの自覚が消えることがある。そうであるから、悔い改めは、常になされる必要がある。しかし、義認は一度でよいのである。
6 旧約のもとでの信者の義認は、これらすべての点から見て、新約のもとでの信者のと同一であった(1)。
1 ガラテヤ3:9,13,14、 ロマ4:22-24、ヘブル13:8
六 ローマ人への手紙4章で明らかなように、アブラハムは信仰の父であり、従って義認された者の父でもある。旧約時代のまことの信者は、わたしたちと全く同様に、その信仰が与えられた当時から、すでに義人であった。ローマ・カトリック教会のように、キリストの復活の日までは、リンブス・パトムス(煉獄)におかれていたわけではない。
(補記) 昔のペラギウス主義は、自力救済を主張し、アウグスチヌス主義は、ただ恩恵主義を説いたが、中世カトリック教会は両者の中間をとって、セミ・ペラギウス主義を教えた。宗教改革期には、唯信仰、唯恩恵を説くルターやカルヴァン派に対して、セミ・ペラギウス的な後期メランヒトンやアルミニアンが現われ、それと呼応して、反律法主義とペラギウス的ソシニアンが出現した。近代主義は原理的にはこの反律法主義(神は愛であって、万人は救われる)という真宗的な安易な宗教観と、自力救済(カントのような倫理至上説)の外に救われる道はないという考え方が、主流をなしていると私は思う。そうであるだけに改革派信仰の正しい義認論が、今こそはっきり教えなければならない時ではないだろうか。
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この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500
465-0065
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」