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「ローマ人への手紙」研究 (115)
第65課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
9章1~36節 (27)
「神は完全に、また絶対的に人間から自立しておられる」。
(11:34~35)
「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。
11:34~35(2)
神は永遠からすべて起こり来ることを予定しておられるが、この予定は予知に基づくものであると主張する人たちがいます。罪人の救いという問題について、この考えによると、神は永遠からある人々を永遠の生命に選んでおられるが、この選びは、その人たちが人生のある時点において自らの意思によって悔い改め、キリストを受け入れることを、神が予め知っておられたことに基づいてなされたのであると考えるのです。
勿論、この考えは神の永遠の予定と選びが真のものではなく、また効果的でもなく、単なる言葉の上での作り事であるということを婉曲に述べたに過ぎません。もし救いを望むようになることを神が予め知っておられる人たちの救いを神が予定されているのであれば、神の予定は作り事に過ぎなくなってしまいます。これは、神が永遠に聖定において人生の永遠の問題を、罪ある被造物の人間の自由意志に委ねてしまわれ、ご自身は人間がその自由意志によって決定するところを、単に承認されるだけであると言うことと同じです。これは正確に言うと、「神は自ら選ぶ者を選ばれる」という教えだと言ってもよいのです。これは人間の選択が真に有効であって、神の選択は人間の選択の単なる批准に過ぎないことになります。
このような神の主権性と自立性の否定は、聖書の入念な釈義からは決して出てこないものです。このような見解を持つ人たちと話してみると直ちに、彼らが一種の人間中心の推理に立って立論していることが分かります。彼らは神の主権性と人間の自由、責任を調和させることができないので、神の主権性を事実上否定して、人間の自由性を擁護することによって、このパラドックスから逃れようとするのです。
私たちの教会が立っている改革派神学は、畏れつつこのパラドックスを未解決のままにしておくのです。このパラドックスは聖書の中に深く座を占めていることを知って、それら両者のいずれをも犠牲にすることなく、双方とも主張するのです。
この問題を巡って極めて粗雑な論議がなされている。時々、カルヴァン主義は神の主権性を教え、アルミニウス主義は人間の自由と責任を教えている。私
たちはカルヴァン主義とアルミニウス主義の両方を取り入れて、真理を全体的に捉えならなければならないと言われる。このような考え方は、ある人々に訴えるものをもっており好評を博しているのです。そのような事実が現実にあるので、ここで反論しておかねばなりません。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」