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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・20
問18 前々回マザー・テレサのことに触れ、彼女は「神に聞き従うことによって、人を愛する自由を得た人であった」と言われましたが、神に聞き従うことによってそういうことが出来るのですか。また「汝の敵を愛せよ」と言われていることが本当にできるのでしょうか。
「答」 「敵」はやっつける相手であって愛する相手ではありません。ですから古来敵はみなやっつけて来ました。そうでなければこっちがやられてしまいますから、敵を愛してなんかおれません。モーセの律法といわれているものの中に「目には目、歯には歯」という規定があります(出エジプト記21:23)。
これは損害賠償法とも言うべきものであって、同刑復讐の原則です。こういう規定を造った前提には、人間は他者を敵対視するものであるという人間理解があります。しかも、目を痛めつけられたら目どころではなく、相手の手も足もやっつけずにはおかないものであることをよく知っているために「目をやられたら、目をやり返すだけで止めておきなさい」という抑制をきかせている規定です。言われた方は「そういわれりゃそうだな、まあ、その辺で済ませるか」ということになります。こうして果てしなく報復をせねば落着けない人間に対するある程度のブレーキがかけられることになります。
ところが、イエス・キリストは「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人には手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。・・・敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました(マタイ5:38~44)。こうなると「とても出来ません」と言うしかありません。クリスチャンの多くはここで悩みます。キリストを信じていると言いながら、キリストが命じられているようにはなっていないからです。
しかし、ここで大切なことは、このように命じておられるキリストは、自分でその通りに生きられた方である、ということです。周知のように、キリストは自分を十字架につけた人たちのために「父よ、彼らをお赦しください。彼らには自分のしていることが分かっていないからです」と祈られました。
ここには報復は一切ありません。あるのは赦しの愛です。言い換えると、キリストの側からすれば、自分を十字架につけた者たちを「敵と見ていない」ということです。また敵は「報復すべき相手ではなく、愛すべき相手である」と見ておられるということです。「敵は戦って打ち負かす相手でも、やっつけられて倒される相手でもなく、愛する存在である」となったら、事態は変わってきます。
そう見られていることが分かったら、相手も変わってくるでしょう。「敵」にこだわっている限り、敵はいつまでも存在します。愛することが出来るかどうかにこだわらないで「敵は愛すべき者」と見定めるところに、自他の救いがあるのです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
8月のラジオ放送予定
8月 3日 田口博之 (日本基督教団名古屋桜山教会牧師)
10日 田口博之 (日本基督教団名古屋桜山教会牧師)
17日 田口博之 (日本基督教団名古屋桜山教会牧師)
24日 吉澤 永 (日本基督教団愛知教会牧師)
31日 吉澤 永 (日本基督教団愛知教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」