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解説 ウエストミンスター信仰告白 (26)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第12章 子とすることについて
義とされるすべての者を、神はそのひとり子イエス・キリストにあって、また彼のゆえに、子とする恵みにもあずかるものとされる(1)。それによって、彼らは神の子の数に入れられ、その自由と特権を受け(2)、神のみ名をその上にしるされ(3)、子たる身分を授ける霊を受け(4)、大胆に恵みのみ座に近付き(5)、アバ父と呼ぶことができるようにされ(6)、あわれみをこうむり(7)、守られ(8)、備えられ(9)、親から受けるように神から懲らしめられ(10)、しかし決して捨てられず(11)、それどころか、あがないの日のために証印され(12)、永遠の救いの相続人として(13)、いろいろな約束を受けつぐ(14)。
1 エペソ1:5、ガラテヤ4:4,5(*) *エペソ1:5が正しい(ガラテヤ4:4,5は2の証拠聖句)
2 ロマ8:17、ヨハネ1:12(**) **ガラテヤ4:4,5、ロマ8:17、ヨハネ1:12が正しい
3 エレミヤ14:9、Ⅱコリント6:18、黙示3:12
4 ロマ8:15
5 エペソ3:12、ロマ5:2
6 ガラテヤ4:6
7 詩103:13
8 箴14:26
9 マタイ6:30,32、Ⅰペテロ5:7
10 ヘブル12:6
11 哀3:31
12 エペソ4:30
13 Ⅰペテロ1:3,4、ヘブル1:14
14 ヘブル6:12
一 有効召命にあずかった信者が、この世で受ける祝福を、義認と子とすることと聖化の三つに区別することは、ウエストミンスター信仰基準の採用しているところであるが、近代の改革派教理学者たちは、かならずしもそれを最良のものとは考えていない。すなわち、子とする恵みを義認の一部として取り扱う人々が多いようである。
義認は罪の赦しと、原義の回復の両面を含むなら、義認の積極的な面は子とすることに他ならないと考えられている。また、他の教理学者によると、子とすることとは、天国の世嗣とされることであるから、義認が罪責に対する救いであるように、子とすることとは罪―悲惨よりの救い-に当たると考えられる。
堕落が神との関係と世界との関係の3つの面についての変化を意味したように、救いもまた対神的に義とされ、対自的に聖とされ、対世界的に神の国に入れられることに当たるとすれば、子とされることとはこの第三の面に当たるものと考えてよい。
すなわち、子とされることによって、わたしたちが受けるものは、幸福と呼ばれるべきものであって、義認が国家的法廷的な性質の事柄であり、聖化が教会的、あるいは個人的な事柄であるのに対して、子とされるとは、家庭的、社会的、国家的ともいうべき性質を持っている。救いの祝福は一つのものであるが、極めて全般にわたる事柄であるので、その恵みを各方面から考察するとき、このように三つの別な恵みとして数えることができるのである。
(補記)
米国南長老教会には、百年前からこの「子とする恵み」を強調する教理学者があった。私は「フルトン校長の生涯と神学思想」という中央神学校同窓会編著の中にこのことについて少し詳しい紹介を書いたので、参照されたい。
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この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
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465-0065
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」