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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・21
問19 前回、「敵は愛すべき者」と見定めるところに、自他の救いがあると言われましたが、敵をそう見定めるなんてことができるでしょうか。
答 頭の中でそう考えていても、実際に敵が目の前に現れた時には、防戦に努めるか、敵をやっつけてしまわいことには納まらないでしょうね。敵がいなくなってはじめて安心と言うわけですからね。
しかし、それは敵である相手側から見ても同じことなので、こちらが倒れるまでは安心できないでしょう。このことは武器をもって戦う戦争における事実です。要するに殺し合いなのです。相手を殺さなければ自分は生きておれないし、自分が殺されることによってしか相手が生きられない、つまり相殺を余儀なくさせるのが戦争なのです。
愚かと言えばこれほど愚かなことはありません。ですから自他共に生きるには戦争は絶対にしてはなりません。大切なことは共生なのです。この共生は、自分がしてほしくないことは相手にもしない。また、自分がしてほしいことは相手にもする、ということで成り立ちます。
これは単に自分のことを大切にするだけでなく、相手のことも大切にすることです。こういうことは、よく「相手のことを思いやる」こととして取り上げられますが、これはむしろ「自他のことを思いやる」ことではないかと思います。「自他」という相互関係を考える時、それを考える自分という者は、自己中心の自己から超えています。自己中心の自己から、自己を相対化する人間へと変えられているのです。
この自己中心の自己から、自他間の共生に焦点を合わせようとする自己へと変えられるということは、今までの自己から解放されることであり、「救われる」ということなのです。それは今までの自己を否定することでもあります。ただし、自己否定なんてことは起こりようがありません。
自己が自己であろうとする限り、他者を抹殺するしかない自己であることに気づかされることから始めて、そういう自己は否定されるべきであるという視点を与えられるのです。
「与えられる」と言いましたのは、そういう視点は、予め自分でそこへと到達すべきであると予想して、自分の力で得るに至るという性質のものではないからです。自己からの解放は自分ではできるものではありません。それをさせるものは、自己を超えたものです。ただし、それは単に他者を傷つけて何の痛みも感じない人もいますし、相手をやっつけたことをむしろ誇らしく語る人もいるくらいですから、そういう自分を超えてはいないのです。
そういうことから言って、真に望ましい自己否定をさせ自己から解放させる絶対的な自己超越者に出会うこと無しに、自他の関係は至難であると言えます。「敵は愛せるか」ということを巡って、以下のことはこの問題を考える一つの手がかりになるのではないかと思います。・・次回に続く・・
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
9月のラジオ放送予定
9月 7日 長谷川潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)
14日 長谷川潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)
21日 後登雅博 (日本キリスト改革派高蔵寺教会牧師)
28日 後登雅博 (日本キリスト改革派高蔵寺教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」