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解説 ウエストミンスター信仰告白 (27)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第13章 聖化について
1 有効に召命され、再生された者たちは、自身のうちに創造された新しい心と新しい霊を持っているので、み言葉と彼らに内住するみたまで(1)、キリストの死と復活の力によって、実質的に人格的に、さらに聖とされる(2)。罪の全身にわたる支配が破壊され(3)、そのいろいろな欲情は段々に弱められ、殺されていくし(4)、また彼らは、それなしには、だれも主を見ることができないところの真の聖潔の実践にむかって(5)、すべての救いの恵みに段々生かされ強くされていく(6)。
1 ヨハネ17:17、エペソ5:26、Ⅱテサロニケ2:13
2 Ⅰコリント6:11、行伝20:32、ピリピ3:10、ロマ6:5,6
3 ロマ6:6,14
4 ガラテヤ5:24、ロマ8:13
5 Ⅱコリント7:1、ヘブライ12:14
6 コロサイ1:11、エペソ3:16-19
一 聖化の恵みは、要するに腐敗している性質(原罪)の聖化のことである。それは具体的には、悔い改めという形を通して戦いとられる、わたしたちの罪ある性質の滅殺であり、十字架を負うこととカルヴァンが言うところのものである。古い自分の肉的性質を克服させる聖霊のちからある働きに外ならない。主を見ることは最上の祝福であるが、それは自己否定と相関的に与えられるものである。
この聖化は、新生によって創造された新しい心と精神の成長であり、活動であって、キリストの死と復活との結合(洗礼はこのことのしるしである)によって与えられるものであり、み言葉を手段とし、み霊の活動によって生じる事柄である。
聖化は、キリスト者の善行によって与えられるのではなく、聖化によって善行が生まれてくるものなのである。また、どこまでも聖霊の活動であるけれども、同時にみ言葉を手段として与えるという限り、わたしたちのみ言葉への聴従を必要とするが、み霊の働きは密かなふだんの活動であるから、目に見える事柄ではない。
2 この聖化は、全人に行きわたるけれども(1)、この世にある間は未完成である。どの部分にもなお腐敗の残部が残っている(2)。そこから、絶え間のない和解できぬ戦いが生じ、肉の欲がみたまに反し、み霊もまた肉に反するのである(3)。
1 Ⅰテサロニケ5:23
2 Ⅰヨハネ1:10、ロマ7:18,23、ピリピ3:12
3 ガラテヤ5:17、Ⅰペテロ2:11
二 堕落が全的腐敗であるように、聖化も全的聖化であって、人間を構成するすべての部分に及ぶのであるが、同時に地上の生活での完全聖化はありえない。だから、クリスチャン生活のあるところ、常に霊と肉との戦いは絶えないのである。従って、悔い改めの必要も絶えないはずである。そこには進歩はあっても休戦はないし、あってはならない。
ただ一つ注意したいことは、ペテロの第二の手紙1章4節に「神の性質にあずかる」という句があるので、聖化とは、神性を分与されること、または人性が神性に変化することだと誤解する人々のあることである。人間性は罪がなくても被造物であって、神性とはまったく異性(質)的なものである。
聖化とは、罪性がきよめられることであって、罪なき本来の人間性に回復されることでなければならない。聖化が、主イエスのかたちに似せられるというのは、どこまでも無罪なイエスの人性に近づけられることであって、神の子と同性質のものとされるという意味ではない。
3 この戦いにおいて、残っている腐敗が、一時、大いに優勢になることもあるが(1)、それでもキリストの聖化のみたまからくる継続的な力の補給によって、再生の側が勝利を得る(2)。それで聖徒たちは、恵みに成長し(3)、神をおそれて聖潔を完成して行く(4)。
1 ロマ7:23
2 ロマ6:14、Ⅰヨハネ5:4、エペソ4:15,16
3 Ⅱペテロ3:18、Ⅱコリント3:18
4 Ⅱコリント7:1
三 この聖化の増進はかならずしも、一定の速度に従って進展するのではなく、場合によっては、一時的に停滞または後退を示すかも知れない。黙示録の繰辺法的注解(アウグスチヌスの考えたもので、歴史的直線的に終末に至る物語と見ないで、教会史の中で幾度も出現する現象として受け取る)に従う人たちは、個人としても教会としても、このような一進一退的な波乱のある戦況がクリスチャン生活の本来の姿であることを示すものと考える。
旧約の歴史に現れるイスラエルの荒野の生活や、カナン入国後の状況などは、実にこうした信者の生活の姿を具体的に絵画的に教示するものである。旧約の歴史で描かれている戦争は、実にこのような霊と肉との戦いの図に外ならないとも言えよう。
しかし、最後は神のはじめられた業がついに勝利するのである。一度救いに選ばれた者は決して恵みより落ちることはない。聖化は根本において、選ばれた神の意志の実現であるから、神を畏れて聖潔が成就するように祈り、(Ⅱコリント7:1)畏れおののきつつ自己の救いの成就することを祈り(ピリピ2:12)、信者自身の意思の力によるのではなく、自己の祈りと努力を自由意志的第二原因として用いることにより、神ご自身がわたしたちのうちに完成してくださるみ業なのである。
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この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
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465-0065
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」