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世田谷通信
(130)
猫 草
長男と一緒に漢文や古典を読むことがある。彼は数学大好き根っからの理系人間なので、行間を読む文系科目は苦手、でも試験前にはなんとかやっつけなくてはいけない。翻って私は文章ならなんでもござれ、の活字中毒。短時間で解説してくれ!と頼まれればやぶさかではない。そんな事情である。
私もそういう機会でもなければ平安時代の古典などひもとかない。いわんや漢文をや、である。しかし1000年のときを超えて残ってきた文章は珠玉。切り刻まれて教科書に載せられている短文程度でもなお輝きを失わない。素朴で無駄がない。大河の下流の河川敷でみつけることのできる、長期間流れに洗われて、すべすべになった小さな丸い小石のようである。
先日、友人と「徒然草」展を見に行った。インターネットどころか、印刷やコピーの技術のなかった時代に、あれだけ大量の随筆が多くの異なる人間の筆跡で丁寧に書きうつされ、美しい表紙で綴られ、豪華な箱の中に収められて、現在まで完全に保管されている。まさに「言葉は宝」だったのだなあと思う。人の手になるものなので、どうしても異本がでてくる。どれが最も原本に近いものなのか、種々雑多な本を引き比べて、系統を整理し、底本といわれるベースラインを決めていくのも文学研究の一分野である。
今の電子書籍や書店や図書館にあふれかえる大量の本をみたら、1000年前の人たちはなんと言うだろう。「わろし」と一言いわれそうな気もする。
使い捨てられる言葉、書き捨てられる紙、読んだつもりで目の端からこぼれおちていく情報の中で私たち自身が流れにまかれて磨り減っては居ないか。
毎日一体何通のメールや文章を書いては送信し、書いては修正しを繰り返しているのだろう。それは磨かれず、単に澱のように沈殿していくだけのものである。本当に自分の気持ちとむきあった一言を探したい、そんな気持ちになる。
*この添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」