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小閑記
もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして、真理はあなたがたに自由を得させるであろう。
=ヨハネ8:31~32=
神と共に生きる生活は、私たちが神のみ言葉のうちにとどまっていなければ、続けることは出来ません。聖書を捨ててなお自分はキリスト者であると思う人は、うそ偽りの生活をしているのです。地図も目的地も知らずに旅する人はおりませんし、ましてや人生の旅が出来るなどと思う人は、自分を偽っているのです。
神のみ言葉にとどまるということは、単に聖書を読むということばかりを意味するものではありません。それはまず徹頭徹尾、心に神のみ言葉のために、場を与え、それに基づいて生きることであります。
また、イエス様の弟子である人々の特徴は、何かを要求し、裁きを宣告したがり、道を示す言葉のみを研究し、考え、自分に当てはめることを好みますが、恵みと許しのみ言葉については触れずにおります。また他の人々は、慰め、励まし、幸いにする言葉のみを知りたがります。
こういう見方は両方とも、一方的であって危険をはらんでいます。もし真理が私たちに自由を得させるならば、要求や審判や慰めはすべて私たちの心に場所を見出すはずです。もし私たちのまわりの真理がすべてであるならば、心も自由を得させる真理に対して閉じられるでしょう。
キリスト者の生活を支配する根本的な掟は、罪と恵みについてのみ言葉でありま す。罪の認識の欠けるところに、恵みはもはや働くことは出来ません。しかし、人が恵みの扉を叩く時、神は恵みに恵みを加えられるのです。こうして真理は私たちを自由にします。
この点で、私たちがイエス様の弟子であるならば、キリスト者として、清く幸いな生活を送ることが出来るように、真理は私たちを自由にし、力となるのです。
上河原立雄
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」