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今月のことば
主は聖なる者の集いにおいて恐るべき神、そのまわりにあるすべての者にまさって大いなる恐るべき者です。
=詩篇89:7=
「集い」には、その集まりの雰囲気、独特の臭いとでも言うべきものがあるでしょう。私たちもその雰囲気・臭いで参加することがあります。音楽会、同好の集い、政治的な集い、上品であれ下品であれ、雰囲気を感じます。今流で言えば異業種の集い、宗教的な集いもあります。その集まりの雰囲気でこれからの参加・不参加を判断する人もいるでしょう。
キリスト者の雰囲気・臭いがあるとすれば、クリスチャンは、鈍感より敏感であるべきでしょう。聖書の中には「聖なる者の集い」について語られています。そうして、その「集い」の中心が「恐るべき神」であるというのです。もし、楽しい雰囲気であるならば、気軽に集えるでしょうが、「恐るべき神」の「集い」であれば、心を整え、身支度して参加することでしょう。
教会の入り口に「お気軽にお入りください」という案内を掲示したら、教会をどのように見るでしょうか。そこに集う人々をどのように想像するでしょうか。病院の入り口に「お気軽にご利用ください」と案内されたら、信頼できるでしょうか。
「教会」が気後れする場所、敷居の高い所、「聖なる集い」であるなら、そこに集う一人一人もまた、神の招きを受けた喜びと畏れを抱いて集うでしょう。
信仰者であっても弱い人間です。疑い迷う者です。言葉では「信頼いたします」と言いつつ、心乱す者です。無気力が次の無気力になります。
「今月のことば」の「主は聖なる者の集いにおいて恐るべき神」は、弱さに慄き、信仰の乏しい心を知って集う者に対して恐れ慄かせる神でしょうか。「教会」に集う者の願いは、自分の崩れそうな信仰に新しい力を求め、神の愛によって立て直していただく希望をもって集うのです。「教会」は「集い」の場です。ただ一人で神のみ前に集っても、そこに祈りの友、支えてくれる人がいるのです。
孤独になり、友のいることを見失っている時、あなたの隣りに、愛に富みたもう「恐るべき神」のおられることに感謝したいものです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」