[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・22
問19 前回、「敵は愛すべき者」と見定めるところ、自他の救いがあると言われましたが、敵をそう見定めるなんてことができるでしょうか。
答 頭の中でそう考えていても、実際に敵が目の前に現れた時には、防戦に努めるか、敵をやっつけてしまわいことには納まらないでしょうね。敵がいなくなってはじめて安心と言うわけですからね。・・前回の続き・・
それは、例えば遺産相続を巡って兄弟間に争いが起こることがあります。場合によっては他人との間にも起こらないような憎み合いや仲たがいが生じます。裁判所での調停によってある程度の事柄の処理はされますが、それで必ずしもすっきりするわけではなく、その後、兄弟間の付き合いは全く絶えてしまうこともあります。
こういう時に、もし親が現われて、「遺産を残したのは子供たちのことを思ってのことであって、兄弟を仲たがいさせるためなんかでは絶対になかったし、すべての子供は同じように愛してやまない存在であって、そういう風に親が大切にしている者に憎しみを抱くなんて悲しいことをしてくれるな」と言ったとしたらどうでしょう。そういう自分たちの親の気持ちが分かって「ああ、そうだった。親の気持ちも考えないで自分のことばかり考えていて申し訳なかった。お互いに親の気持ちを大切にしよう」と言ったら、兄弟間の和解が成り立ちます。
この場合、親は子供たちを超えた者として存在し、しかも、子供たちを愛している者として存在しています。そしてまた子供たちは子の親の愛にふれて、自分たちが見当違いをしていたことに気付いて、自分たちを超えた親の思いに即して生きる、という新しい生き方をすることになります。この場合、親は絶対的な他者ではありませんが、少なくとも子供たちを超えている他者です。
この他者の思いが伝わった時、自己の思いを拠り所としていた自分に、自分を知る新しい目が与えられることになります。自己絶対化の自己から、自己を相対化させられます。親の側では「ああ、息子たちがわたしのことをわかってくれて嬉しい。救われた気持ちだ」ということになることでしょうし、息子たちの側でも「親が喜んでくれてよかった。もしそうならなかったなら、おれたちは救われないままだったろう」と言うことになります。
キリストは「敵を愛しなさい」と言われた時、その前提として「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」方であると告げられています。子供が優等生だろうと落ちこぼれあろうと、親の子に対する愛情に変わりがないように、天の父である神は、人間の側で善悪や正不正の判断をしても、そんなことに関わりなく、すべてのものを愛しておられる。
そういうことから言えば、神は「あなたにとって敵である者もわたしにとっては大切な子である。あなたと同じように・・・」と言われているのである。そういうことが分かる時、人間は自分に即してしか考えていない自分から解放されて、神の側の視点によって自他を見ることが出来るようになります。このようにして今までの自己から解放されて神の愛による新しい視点を与えられることが「救われる」と言うことであります。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<10月のラジオ放送予定>
10月5日 横山良樹(日本基督教団半田教会牧師)
12日 横山良樹(日本基督教団半田教会牧師)
19日 佐藤秀吉(日本基督教団幸町教会牧師)
26日 佐藤秀吉(日本基督教団幸町教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」