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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・23
問20・・1 キリスト教では「罪」と言うことを言いますね。クリスチャンは「われらの罪を赦し給え」と祈っていますが、別に犯罪を犯しているようでもないのに、どうしてあんなことを言うのですか。
答 「罪」と言う言葉は普通には何か悪いことしたことに対して、それは「罪を犯した」という風に使われますね。それが法律に引っかかる場合には明らかな「犯罪行為」とみなされます。その場合は法律に違反しなければ「犯罪」とはなりません。と言うことは、その場合の「罪」というものは、その法律が適用せれる範囲内の人にとって誰もが認める共通の「してはならないこと」が明文化されていますから、「罪」とは何かがはっきりしています。これは法律上の罪と言うことになります。
しかし、そのほかに法律違反でなくても「悪いことをした」とか「罪なことをした」とかいう場合があります。その場合には、法律上の適用対象にはならなくても、その人の内に、ということはその人が生きている社会において共通して「そういうことはしてはならない」と認められている規範があるからです。俗にいう「人の道」というものがあるわけで、倫理道徳と称せられているものはそれに該当するものでしょう。
上のように「してはならないことをする」ことが「罪」であって、この罪を犯した場合に法的に刑罰を受け、人々から非難され、自分で自分を責めるなど、罪に対する罰が課せられます。ただしそうは言っても、その規範が自分の内に規範となっていない場合には、罪が意識されることはありませんから、罪意識も無ければ罰せられて当然と思うこともないでしょう。それと、規範と言っても、時代と社会(国家、民族、ムラ社会など)における共通の価値観が認められていない状況においては、罪の内容理解も異なってきます。
そういうわけで、一口に罪といってもすべての人が共通して認める「してはならないこと」とは何かがはっきりしなければ、その違反も確定できないことになります。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<11月のラジオ放送予定>
11月2日 志村 真(岐阜済美学院宗教総主事)
9日 志村 真(岐阜済美学院宗教総主事)
16日 笠井 恵二(中部学院大学特任教授・宗教主事)
23日 笠井 恵二(中部学院大学特任教授・宗教主事)
30日 西島麻里子(済美高等学校宗教主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」