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解説 ウエストミンスター信仰告白 (29)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第14章 救拯的信仰について・・・2・・・
2 この信仰によって、キリスト者は、み言葉において語られる神ご自身の権威のために、そこに啓示されてあるすべての事柄を真実であると信じ(1)、そのそれぞれの個々の章句が含んでいる事柄に応じて異なって行動する。すなわち命令には従い(2)、威嚇にはおののき(3)、この世の命と後の世の命への約束は信じる(4)。しかし救拯的信仰のおもな行為は、義認と聖化と永遠の命のため、恵みの契約に基づいて、ただキリストのみを認め、受けいれ、寄り頼むことである(5)。
1 ヨハネ4:42、Ⅰテサロニケ2:13、Ⅰヨハネ5:10、行伝24:14
2 ロマ16:26
3 イザヤ66:2
4 ヘブル11:13、Ⅰテモテ4:8
5 ヨハネ1:12、行伝16:31、ガラテヤ2:20、行伝15:11
二 この一項は特に重要である。改革派教会で言う信仰の意味、み言葉の意味がここによく説明されているからである。たとえば、へブル人への手紙4章12節の「神の言は生きていて・・・」を、どのように理解するかであるが、アウグスチヌスは「福音」と解釈し、ルターは、「律法」と解釈したが、カルヴァンは「聖書」と解釈したが、カルヴァンによると、信仰は聖書(神の言葉)によって生じるが、それは「福音」に 限るのである。しかし、いったん信仰が生じると、この信仰は一切のみ言葉を真理として、これに従うようになる。第4章「創造について」の二項にあるように旧約の時代から、すでに福音は存在していたのである。また信仰は、神への服従であるとも解釈されている(ローマ1:5)。
カルヴァン的理解が、このウエストミンスター信仰告白が採用している見解であり、その意味の神の言葉と信仰との関係はへブル人への手紙が、最もよく示しているところである。この信仰の一番大切な任務は、キリストを救い主として受け入れることであって、「・・・。わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか(へブル4:14)といわれているとおりである。
3 この信仰は、程度に強弱の相違があって(1)、しばしば、またいろいろと攻めこまれたり、弱くされることもあるが、勝利を得(2)、多くの場合、わたしたちの信仰の創始者でありまた完成者である(3)。キリストによって、全き確信に至るまで成長するものである(4)。
1 ヘブル5:13,14、ロマ4:19,20、マタイ6:30、マタイ8:10
2 ルカ22:31,32、エペソ6:16、Ⅰヨハネ5:4,5
3 ヘブル12:2
三 この項は第13章「聖化について」の三項とまったく表裏の関係にある。聖化と信仰とは、結局、信仰と悔い改めの関係に置き換えてもよい問題であり、常に並行するものである。従って、救いの確かさと信仰の確かさとは、ともに手を携えて進行して行くものである。
ルカによる福音書11章1~13節に、イエスが弟子たちに教えた祈りが記されている。まず主の祈りを教えた後で、イエスは友人関係を例として、求める側の必要からくる熱意を、また、父子関係を例として、与える側の親心を述べて「どうして聖霊を下さらないことがあろうか」と言われている。
この二つの例話は、祈りの内容(何を祈るべきか)ではなく、どのような心がまえで祈るべきかを、示されたのである。つまり、熱心と期待をもって祈れと言われているのである。父はかならず私たちの必要を満たしてくださる方、と言う信仰をもって祈るべきであるが、その信仰を生む聖霊をくださる方であることを期待して、主の祈りを祈れと教えられたのである。救拯的信仰とは、このような信仰のことではないだろうか。
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この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500
465-0065
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」