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世田谷通信
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猫 草
いろんなスポーツをみていると「元気」「勇気」「感動」を「もらった」、あるいは「あげたい」「届けたい」というコメントの多さに気がつく。いつから「元気」「勇気」「感動」は、やりとりするものになったのだろう?まるで贈り物のように。
元気になる、勇気が出る、感動するのは相手側の立場なので、元気になって、勇気出して、感動してというのが押し付けがましく感じられるし、相手に負担になるのが良くないとの配慮なのだろう。「がんばれ」も同じ。気持ちを汲んだ上で、頑張れと相手に求めるのではなく、こちらが頑張っている姿を見せることで、婉曲的に頑張っていただけたら嬉しい。強制じゃなく、こちらで勝手にやっているので、お気になさらずと。受け取る側も、自分のために頑張ってくださいというのはプレッシャーになるので、あくまで通りすがりにいただきましたありがとう・・という・・。なんとも奥ゆかしき心持ちである。
いつから?震災あたり?いやもっと前か。長男に聞いたら、「ドラゴンボール」あたりじゃね?とのこと。確かに主人公、「オラにみんなの勇気をくれ!」とかよく言う気がしますね。でも勇気をくれ、っていうのは、自分が勇気を出すきっかけをくれ、ということですので、勇気を「もらった」という思いがけない感じ、贈り物感とはちょっと違うような・・。いや、現状なんとかしなきゃ、でも一歩を踏み出す勇気がないな、というベースラインがあってこその「もらった」なのか。
多分、ツイッターとか、ブログみたいに、不特定多数の人たちに匿名のまま、気持ちを発信するチャンスが各段に増えたこと、そして「いいね」と共感することで、双方が匿名で社会やしがらみにとらわれないまま、気持ちを醸成できるようになったことも大きいように思う。
誰かへという特別なベクトルがなくても、なんとなく全体的に勇気や元気は送れるし、受け取る側も特に自分宛じゃないけど、エールとしてもらっておくね、という新しい形のコミュニケーションなのかもしれない。ガラス瓶に詰めて海に流す手紙よりももっと、空気に溶ける、風や波のようなメッセージの応酬である。
*この添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」