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「ローマ人への手紙」研究 (119)
第66課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・2・・・
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・2・・・
「神への献身」・・2・・
「聖さ」ということは、もしそれが偏っているならば正しくありません。それは完全であり、よくバランスがとれていなければ正当ではありえないのです。 例えば、ここに素晴らしい教会の役員がいるとしましょう。しかし、この人は家庭においてはとても気難しく怒りっぽくて、家族がいつもみじめで不幸せであるならば、この人はキリスト教信者としての聖さを持っているとは言えないのです。
また、ある人は家庭においては理想的な夫であり妻であり、また両親であるとしましょう。しかし、その人が教会において、神のために努力したり奉仕したりすることを進んでしないとすれば、それは真のキリスト者の聖さを所有しているとは言えません。なぜならば、それは全く一面的でバランスを欠いているからです。
航空機のプロペラは高速回転をして機体を引っ張るのですが、その羽根は完全なバランスをとって入念に製作されています。もしそうでない滑らかな高速回転をしないなrば、機能は発揮できません。一人の操縦士が不時着をして、プロペラの羽根のほんの一枚の数センチでも破損させたら、もはやプロペラは円滑な回転をしなくなり、機体は飛ぶことは不可能となっていまいます。キリスト者の聖さについても同じことが言えるのです。
その性格においてバランスを失っている片寄ったキリスト教信者が少なくないのです。彼らはどうすべきでしょうか。彼らはファンの羽根の一枚を損傷してしまった故障車の運転者のように、反対側のもう一枚を取り去るようなことをすべきではありません。破損したもう一枚を修理して4枚とも完全にしなければならないのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」