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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・24
問20・・2 キリスト教では「罪」と言うことを言いますね。クリスチャンは「われらの罪を赦し給え」と祈っていますが、別に犯罪を犯しているようでもないのに、どうしてあんなことを言うのですか。
答 「罪」と言う言葉は普通には何か悪いことしたことに対して、それは「罪を犯した」という風に使われますね。それが法律に引っかかる場合には明らかな「犯罪行為」とみなされます。その場合は法律に違反しなければ「犯罪」とはなりません。と言うことは、その場合の「罪」というものは、そのほうりつが適用せれる範囲内の人にとって誰もが認める共通の「してはならないこと」が明文化されていますから、「罪」とは何かがはっきりしています。これは法律上の罪と言うことになります。
<続き> 「己が欲せざることをするなかれ」というのが人倫の基礎として教えられたのがわれわれ日本人ではなかったかと思います。これに対して「自分がして欲しいと思うことを人にもしなさい」というのがキリストの勧めです。こういう勧めに即して言えば、「自分がしてほしくないと思っていることを他人に対して行うことが罪」であり、また「自分がしてほしいと願っていることを他人に対して行わないことが罪」であるということになります。ということは、「罪」とは何を規範としているかによってきまってくることになるわけですが、ことは人間の側だけで、または人間の内側での確認にとどまるだけで良 いかという問題に及んできます。
法律と言い倫理道徳と言い、これらはいずれも人間が考えたり作り出しているものです。ですから人間相互間においてはこれを守らなくてはなりません。それから外れることは罪を犯すこととみなされます。「善悪」についても同様で、人間の側の判断によって相互理解していることであります。
ところで、聖書は、と言うことはキリスト教ではということになりますが、「罪」や「善悪」の判断をする主体を人間には置かないで、神に置いています。「神とは何か」という論議にはここでは触れませんが、すべての根源を人間を超えた神(超越者といい絶対者といってもよろしいが)に置いています。
アダムとエバの話はエデンの楽園から失楽園にいたる話としてよく知られています。あの話の重点は、神がこの二人に対して「何をしてもよいが、これだけはいけないよ」と言われたことにあります。こんにちの言葉で言えば「自由は規制の中でのこと」と言えますが、その規制とは「神がしてはいけないと言われたこと」で、神による禁断があった、そういう神と人間との間の関係が成り立っていたところがエデンと言われた楽園であったわけです。
で、二人がこの禁断の実を取って食べたと言うことは、神が定められた規範に背いたことであり、神の規範よりは自分たちの欲望を主にしたことですから、その途端に主客を転倒させたことになります。これが「神に対する罪」であります。
罪に対する罰は当然下されます。楽園追放と言う罰を神から受けました。物語り風に言えばそういうことになりますが、内容としていえば、神に背くと言うことは神を無視し自分たちの願いを優先させることですから、その途端に神との関係を自分の方から断ち切ったことになります。
神が主であった状況から、自分たちが主になるという状況を自ら選び取ったことになります。従って、そこにはもはや主である神は不在となります。エデンの東とは神不在の世界であり、それは彼らが自分でまいた種を刈り取ることになったと言うことであり、その責任はあくまでも人間の側に帰せられることであります。
<12月のラジオ放送予定>
12月 7日 相馬伸郎 (日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師)
14日 相馬伸郎 (日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師)
21日 金 起泰 (日本キリスト改革派犬山教会牧師)
28日 金 起泰 (日本キリスト改革派犬山教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」