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ビルマ
戦犯者の獄中記 (45) 遠山良作 著
昭和22年
5月18日
母より三年ぶりに三通のハガキを受け取る。何べんも何べんも繰り返して読む一字一字が、温かい母の愛情を感じる。記憶にある子供の頃から、母は眼鏡を二つかけて筆を執っていた母の姿を思い浮かべる。幼い頃はよく洗濯に行く母について、村の小川について行った。浅い川辺にいる小魚をざるですくったものである。あの頃が懐かしい。母はまだ若かった。その母はいつも幻の中で孤独と絶望の中にある時、優しい声で私を励ましてくれた。戦犯者として遠い異国であるビルマの牢獄に繋がれている私のことを思い、どんなに悲しみ嘆いていることであろう。
母より送られた歌
目に見えず 声も届かぬ 遠き地を 吾子何時帰ると 心憂いて
出征し子の 帰り来る日は 何日の日と 朝に夕なに 神に祈りて
獄にいる 吾に届きし 母の文 しかと抱きて 今宵眠れり
獄ぬ内の 吾に届きし 母の文 その筆跡の くきやかにして
待ちいたる 母よりの手紙 届きたり 幾度もよむ 暗記するまで
6月16日
―東大尉たちタキン事件で起訴―
タキン事件で久米憲兵司令官たち18名起訴された。その関係者である東大尉と中山少尉はこの東独房から西独房に移された。
この事件は終戦直前に、ビルマ反乱軍である有力なタキン党員20数名を処刑した事件である。昨年、私たちがモールメン刑務所に収監されるや、東大尉は「反乱軍に関係した事件で取り調べを受けた場合は彼等はタイ国境で釈放したと答えよ」との緘口令を出していた。
当時私はモールメン刑務所で行った首実検で、反乱国軍のボミー中尉はモールメン刑務所から「タキン」党の関係者を連れ出した時、「遠山」もいた。その後、彼等は帰らなかったから殺されたと思う、と私を指名したので処刑した容疑者の一人として何回も取り調べを受けたのである。
誰一人としてこの事件について口を割る者がいないまま一年有余を経過した。焦った彼等は、戦犯容疑者としてこの獄に収監されていた田島少佐なる人物を懐柔し戦犯調査委員の「スパイ」として使い、モールメン憲兵分隊の補助憲兵であったA曹長とB曹長に甘言を以て接近し、ついに全てを自白せしめ、処刑した現場まで案内させ、全ては判明した。
人間の弱さを巧みに利用した英軍の策に落ちた二人もまた犠牲者かも知れない。
益良雄の 身をも忘れて 現蝉(うつせみ)の 己が身愛する 人もあるらし
覚悟の上 髪を遺して 法廷に 立たる戦友の 決意思ほゆ
*この文章の転載はご子息の許可を得ております。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」