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解説 ウエストミンスター信仰告白 (30)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第15章 命に至る悔い改めについて
1 命に至る悔改めとは、福音的恵みであって(1)、その教理はキリストヘの信仰の教理と同様に、すべての福音の教役者によって説教されるべきである(2)。
1 ゼカリヤ12:10、行伝11:18
2 ルカ24:47、マルコ1:15、行伝20:21
一 信者がこの世で受ける救いの恵みを、客観的超経験的面と主観的経験的面とに大別すると義認、子とすること、聖化などは前者に属し、信仰と悔い改めなどは後者に分類される。信仰と悔い改めは、まったくこのことの表裏をなす深い関係にある。信仰に「救いに至る」という形容詞がつくように、悔い改めにも「命に至る」という形容詞がつけられている(使徒11:18)。
コリント人への第二の手紙7章10節に「・・・救いを得させる悔い改め」とあるから、ここで、命に至るというのは、まったくその意味であることがわかる。信者の生活は一面信仰生活であるとともに、同時に悔い改めの生活でもある。クリスチャンのことを信者と呼ぶなら、悔い改める者(回心者)と呼んでも差し支えないはずである。
カルヴァンは「キリスト教綱要」三巻で、この点をよく述べている。ローマ・カトリック教会の改俊が、まったく非福音的思想であるのに対して、わたしたちは聖書的な意味での悔い改めを宣教しなければならない。信仰のみを説いて、悔い改めることは、義認を説いて聖化を忘れる場合と同様に、アンチノミアニズム(反律法主義)に陥る。
改革派教会の宣言はこの点に言及している。ルター派が、たびたび反律法主義への危険を感じさせるのに対して、改革派は常にこの点を強調してきた。カルヴァンが「十字架を負うこと」とか「自己否定、自己嫌悪」を力説したことは有名である(ハイパア・カルヴィニズムと呼ばれている反律法主義もある)。
2 これによって罪人は、自分の罪を神のきよい性質と正しい律法に反するものとして、その危険さばかりでなく、そのけがらわしさやいとわしさをも見また感じ、そして後悔している者へのキリストにある神のあわれみを悟って、自分の罪を悲しみ憎んで全くそれを捨てて神に立ち帰り(1)、神の戒めのすべての道において神と共に歩むように目ざし努力するのである(2)。
1 エゼキエル18:30,31、エゼキエル36:31、イザヤ30:22、詩51:4(6)、
エレミヤ31:18,19、ヨエル2:12,13、アモス5:15、詩119:128、Ⅱコリント7:11
2 詩119:6,59,106、ルカ1:6、列王下23:25
二 これは、悔い改めとは何であるかを、よく述べられているところである。その出発点と立脚点と目的を明示している。聖化されていない自己への嫌悪とキリストの赦しと助けへの信頼と、神の律法に従って、神とともに歩もうとするこころざし、この三つの関係が命に至る悔い改めの生活を形成するのである。そのうちに一つでも欠けると、この命に至る悔い改めは成立しない。
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この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
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465-0065
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」