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小閑記
わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。
=ピリピ1:21=
信仰者の喜びは、人それぞれのことばで表現されますが、パウロの「信仰の喜び・生きる幸い」をこの聖句は見事にそれを表現しています。それは単なる高揚の感情ではありません。人が、救われた罪人であることを考える時、何物にも代えがたい喜びとして、私たちを捉えるのです。
人生という長い旅路の中で、信仰に生きることは、血肉の戦いであり、苦難の日々でもあります。日常の信仰生活の中に苦難を感じない、出会わないことは絶対にないのです。キリストに生きることは、この世のものとの決別・戦いだからです。「献身」と言う言葉は教会でよく使われる言葉です。しかし、この「献身」は日々の生き方で神様に証明しなければなりません。ですから、とても重たい言葉なのです。
パウロにとっては、地位も、名誉も、富も、時間や命さえも、キリストのみ心に適わないものは、何の意味も価値もなさないものでした。パウロの見出した価値は、イエスの内に見たのです。ゴルゴタへの道に、その丘の十字架のイエスに見たのです。
彼は多くのものを見、知っていますが、このキリスト・イエス以外のものは、何も持たず、何も見えず、何も知らず、何も知ろうとしなかったのです。
地上の命に与える最高のものさえも、イエス・キリストがお与えくださるものに比べれば、塵・芥に等しいものでした。パウロはキリストに生き、キリストのために生きました。キリストの愛に生きました。
これはキリストにある信仰を告白する私たちにとっての試金石であり、鏡でもあります。弱く貧しい信仰者である私にとって、この生き方は、本当に手にすることの出来ない高峯ですが、パウロも罪人、弱い人間です。しかし、このように告白し続けて生きたのです。
キリストを見出して生きるとは、何と幸いなことでしょう。
「献身者」として生きましょう。
上河原立雄
=嘆き悲しむ人よ=
心正しきイエス様が 逮捕されたと
嘆き悲しむ人よ これは神様の御心だと知れよ
愛に富みたるイエス様が 死刑にされたと
嘆き悲しむ人よ これはわれらの救いのためだと知れよ
力に満ちたイエス様が 埋葬されたと
嘆き悲しむ人よ これが死を打ち負かすためだと知れよ
水野源三作
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」